湯島天満宮 旧称を湯島神社といい、湯島天神とも呼ばれているこの神社は、雄略天皇2年(458年)に創建されたと伝えられており、南北朝時代の正平10年(1355年)に住民の請願により菅原道真を勧請して合祀、江戸時代には徳川家の崇敬を受けて多くの学者や文人が訪れ、8代将軍吉宗の時代であった享保期には江戸三富のひとつである富籤の興業が行われたところです。 毎年2月には梅まつりが行われ、併せて受験シーズンとあって多くの学生たちが合格祈願に訪れて賑わっています。 |
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表鳥居から唐門の間は透塀(「透かし塀」ともいいます)が設けられています。 | ||||||||||
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車祓い所から見る登竜門 | ||||||||||
女坂の石垣にある奉納の印 石垣を構築する際に寄進した人たちの名前と寄進した坪数が刻まれたものがあります。 |
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本殿(正面から全体を撮ろうと思ってもお参りする人が多くやむをえず上部だけとなりました。) | ||||||||||
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泉鏡花の筆塚 この塚は明治から昭和にかけて活躍した作家泉鏡花の筆塚で、作家の久保田万太郎、里見惇らによって昭和17年に建立されたものです。 泉鏡花が明治40年(1907年)に「やまと新聞(現在の東京スポーツの前身)」に連載した「婦系図(おんなけいず)」は一世を風靡した国民的通俗小説のひとつで、ここ湯島天神の境内が舞台となっており、『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。・・・・・私にゃ死ねと云って下さい』という芸者お蔦のセリフが有名です。 小説はその後新派の舞台の代表作となり、映画でも田中絹代や山田五十鈴、山本富士子などがお蔦役、長谷川一夫、鶴田浩二、市川雷蔵などが主税役となって幾たびが上映され、テレビでも数度にわたって放映されたほどです。 また昭和17年には作詩 佐伯孝夫、作曲 清水保雄で「湯島の白梅」がレコード化されて「湯島通れば想い出すお蔦 主税の 心意気 知るや白梅 ・・・」が街中に流れていました。 |
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湯島聖天 |
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男坂の手前右側にあり、正式には「柳井堂心城院」という天台宗のお寺です。 もともとは湯島天神の別当寺で「宝珠弁財天堂」と称していましたが、元禄7年(1694年)に菅原道真と縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが開基とされていいて、江戸三十三観音の第七番札所となっています。 「柳井堂」の名は境内には江戸名水のひとつである「柳の井戸」(写真右端)があることからきているようです。 |
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境内の庭園 |
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