富岡八幡宮 |
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江東区富岡にある富岡八幡宮は、寛永4年(1624年)に長盛法師が当時永代島と呼ばれていたこの地に「永代島八幡宮」を創建したのが始まりとされ、八幡大臣を崇敬していた徳川将軍家の保護を受け、江戸の庶民にも「深川の八幡様」と親しまれ、6万余坪の社有地にある庭園も人気の場所でありました。 社の周りには門前町が形成され江戸でも有数の繁華街となっていたようで、現在の地名門前仲町はここからきているようです。 |
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伊能忠敬像 江戸時代後期の寛政12年(1800年)当時55歳であった伊能忠敬は弟子3人とともに富岡八幡宮に参拝してから奥州街道に出発、以来足掛け17年をかけて日本全国を測量、文化13年(1816年)に「大日本沿海與地図」を完成させて日本の国土の正確な姿を初めて明らかにしたとのことで、この像は大鳥居を潜った左側にあります。 |
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大関力士碑 富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られており、当時境内で本場所も開催されていました。この大関力士碑は歴代の大関力士を顕彰するもので、現存する最古の番付表である宝暦7年(1757年)10月のものに大関として記載されている雪見山堅太夫を初代として琴欧州勝紀まで看板大関と横綱に昇進した力士を除く114人の名が刻まれています。 因みに看板大関とは江戸時代大関不在時に見栄えが良い力士を番付に大関として載せ実際には土俵に上がらなかった大関のことです。 大関力士碑の左側には「巨人力士身長碑」があり、江戸時代からの長身力士の名が刻まれています。最高身長は生月鯨太左右エ門で7尺6寸八分(2m30cm)あったといい、我々が知っている長身大関琴欧州の2m3㎝よりも27cmも大きいとのこと。 |
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日本一の神輿 富岡八幡宮の祭りは深川八幡祭深川祭とも呼ばれていて毎年8月15日に例大祭が行われ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。 3年に一度の本祭りでは大小120もの神輿が繰り出され、沿道の観衆からお清めの水が浴びせられる「水かけ祭り」と呼ばれています。 左の神輿は重さ何と4.5t、右の神輿は約2tあるそうです。(神輿蔵のガラス越しに撮影) |
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社殿 創建時の社殿は天和3年(1683年)に焼失、再建されるも元禄16年(1703年)に発生したマグニチュード8.1と推定される元禄大地震で損壊、その後も大正12年(1923年)の関東大震災での損壊、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲により焼失と数度の被害に遭っており、現在の社殿は昭和31年(1956年)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した「重層型準八萬造り」となっています。 |
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手水所 境内には銅造り水盤の手水舎がありますが、それとは別に「伊予の青石」と呼ばれる緑泥片岩を用いた手水所があります。 |
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力持碑 江戸時代から明治時代まで力石を用いて力試しが盛んに行われていて、よく神社の境内にあるのを見かけますが、ここにあるのは55貫、なんと約206㎏とか。 |
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横綱力士碑 社殿の右奥にあるこの横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるために江戸時代最後の横綱第十 二代陣幕久五郎が中心となり、明治33年(1903年)に建てられました。碑の裏側には初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれています。(なお碑には第45代横綱の初代若乃花勝治までしか刻まれていませんが、第46代横綱朝潮太郎以降の横綱の名は副碑が設けられてここに刻まれています。) 新横綱が誕生すると刻名式が行われ横綱の土俵入りが奉納されます。 |
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深川不動堂 富岡八幡宮にほど近いところにあるのが成田山東京別院で、通称深川不動尊または深川不動堂と呼ばれています。 元禄16年(1703年)に成田不動の出開帳が冨丘八幡宮の別当である永代寺で行われたのが不動堂の始まりとされていて、明治時代の神仏分離令により永代寺が廃寺となったため、明治14年(1878年)に旧本堂が建立されたものです。 旧本堂はその後関東大震災、東京大空襲により二度も焼失、千葉の龍腹寺の堂を移築したものです。写真の左側の外壁に梵字があるのが現在の本堂です。 |
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木遣の碑より |
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