横須賀まちあるき その2 |
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横須賀まちあるきその2は浦賀駅からスタートです。 |
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駆逐艦村雨の碑 村雨は、1935年(昭和8年)に浸水した日本海軍の白露型の駆逐艦で、1940年の11月に第二駆逐隊に編入され南方海域のミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いなどの各作戦に参戦していましたが、1943年(昭和18年)3月5日の深夜にソロモン諸島のコロンバンガラ島沖で米艦6隻と海戦(米軍が名付けたのは「ビラ・スタンモーア作戦」行い僚艦)峯雲とともに沈没、村雨の乗組員119名が(峯雲の乗組員とあわせると313名が戦死・行方不明)亡くなりました。 |
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たたら浜 たたら浜は東京湾に突き出した観音崎にある観音崎公園の南端にあって、東京湾の中でも外洋と内海の両方の要素を持つ貴重な場所で、クサフグの産卵地としても知られています。 |
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観音崎自然博物館 1953年(昭和28年)に開館した県立の自然博物館で、観音崎に生息する昆虫や両生類、爬虫類などの生物、海藻、草花などが展示されています。 |
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灯台の敷地内には高浜虚子の句碑(右)と初代海上保安庁長官大久保武夫の句碑(左)が並んでおかれています。 高浜虚子の句碑には「霧いかに 深くとも嵐 強くとも」と刻まれており、大久保武夫の句碑には「汽笛吹けば 霧笛答える 別れかな」と刻まれています。 |
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敷地内には初点灯の日にちを記した碑があり、上には右から「點灯明治巳巳年正月元日」、下には左から「11 FEVRIER 1869」と刻まれています。 日本語での日付けは旧暦ですので、西暦では1869年2月11日となりますね。 |
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めだかの学校歌碑 横須賀市生まれの茶木滋が作詞、中田喜直が作曲して安西愛子の歌で1952年(昭和27年)にリリースされた童謡「めだかの学校」の歌碑で、古笠公園入口の手前、横須賀学院小学校の入口そばに建てられています。 |
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戦艦三笠の前には東郷平八郎元帥の像があり、向かって左には『皇国興廃在此一戦』と刻まれた碑があります。 この碑は日本海海戦の出撃に際して三笠のマストにZ旗を掲げ連合艦隊の各艦に対してモールス信号で送った、「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」の電文の一部です。 |
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三笠の全景 三笠は1902年3月に竣工した敷島型の戦艦で、排水量は15,140トン、全長131.7m、最大幅23.2mあって、15,000馬力のエンジンで最大速力18ノットで航続距離は約13,000kmの能力を有していました。装備は主砲が40口径30.5cm砲を4門の他に副砲が14門、補助砲が20文って魚雷発射管4門を備えていました。 |
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三笠の船首(左)と船尾(右) |
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公園からは東京湾唯一の無人島猿島があります。1時間に1便島との間に船が出ているので行って見ることに。 | |||||||||||||||||
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