横須賀まちあるき その2
 
 
   
  横須賀まちあるきその2は浦賀駅からスタートです。
 
 
   
  駆逐艦村雨の碑
村雨は、1935年(昭和8年)に浸水した日本海軍の白露型の駆逐艦で、1940年の11月に第二駆逐隊に編入され南方海域のミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いなどの各作戦に参戦していましたが、1943年(昭和18年)3月5日の深夜にソロモン諸島のコロンバンガラ島沖で米艦6隻と海戦(米軍が名付けたのは「ビラ・スタンモーア作戦」行い僚艦)峯雲とともに沈没、村雨の乗組員119名が(峯雲の乗組員とあわせると313名が戦死・行方不明)亡くなりました。
 
 
   
  たたら浜
たたら浜は東京湾に突き出した観音崎にある観音崎公園の南端にあって、東京湾の中でも外洋と内海の両方の要素を持つ貴重な場所で、クサフグの産卵地としても知られています。
 
 
   
  観音崎自然博物館
1953年(昭和28年)に開館した県立の自然博物館で、観音崎に生息する昆虫や両生類、爬虫類などの生物、海藻、草花などが展示されています。
 
 
   
 



観音崎砲台北門第一砲台跡
観音崎は東京湾の入り口にあり、首都東京と横須賀軍港を防護するために、明治政府によって明治10年代から20年代にかけて日本で最初の西洋式砲台が9箇所に設置されました。
この第一砲台は1884年(明治17年)に竣工した日本最古の砲台で、24cmのカノン砲が2門設置されていましたが、実際に稼働することはなく大正時代に廃止されています。
この第一砲台を含めて9箇所の砲台跡は、「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の名で日本遺産に認定されています。
   

 
 
   
      
 
 


観音埼灯台

日本の灯台50選に選ばれている観音埼灯台は、1866年(慶応2年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダと締結した改税条約(江戸条約)によって建設を約束した8ヶ所の灯台(条約灯台)のうちの一つで、1869年(明治2年)に初点灯しました。灯台は煉瓦造りで建てられましたが、1922年(大正11年)の地震で亀裂ができたため翌年にコンクリート造りで再建されるも半年後の関東大震災で崩壊。1925年(大正14年)に再建されて現在に至っています。
 
      
 
   
   
 
   
  灯台の敷地内には高浜虚子の句碑(右)と初代海上保安庁長官大久保武夫の句碑(左)が並んでおかれています。
高浜虚子の句碑には「霧いかに 深くとも嵐 強くとも」と刻まれており、大久保武夫の句碑には「汽笛吹けば 霧笛答える 別れかな」と刻まれています。
 
 
   
  敷地内には初点灯の日にちを記した碑があり、上には右から「點灯明治巳巳年正月元日」、下には左から「11 FEVRIER 1869」と刻まれています。
日本語での日付けは旧暦ですので、西暦では1869年2月11日となりますね。
 
 
 


観音崎水中聴測所跡

観音崎の突端の磯にある建物の残骸ですが、1937年(昭和12年)に潮位測定のため設けられたものですが、その後敵潜水艦のエンジン音を測聴する水中聴測所として転用されたとのこと。
近くまで行って撮りたかったのですが、海上自衛隊の敷地内にあるため近寄れません。
    
西脇順三郎文学碑

画家を志望していた西脇順三郎は家庭の事情でこれを断念、絵筆を握ることを趣味としペンに持ち替えて多くの詩集を発表、著書の中には自筆の絵も取り入れた詩画集なども発表するほどでした。
観音崎には子息の遠足に同行していらい幾たびか訪れており、ここ観音崎をモチーフにした「燈台に行く道」の詞も詩集「近代の寓話」に収められています。

 

 
   


権現洞窟

観音崎の地名の元となるのがこの海蝕洞で、観音崎洞窟とも呼ばれています。
崩落の危険もあるため中には入れませんが、諸国行脚中の行基上人が741年(天平13年)にこの地に立ち寄り、沖行く船に危害を加えていた白い大蛇を退治し、その霊を祀るために観音像を彫って洞に収めたところ、海が平穏になり、安全に漁ができるようになったと伝えられています。
像は近くに建てられた観音寺に収められていましたが、寺の火災により焼失し現在に至っています。
 
 
 


三笠公園通り

国道16号線の三笠公園入口交差点から三笠公園に向かって約400m、海岸をモチーフとして中央には横須賀で生まれた帆船日本丸のモニュメントを配しており、のんびり歩くにはもってこいの遊歩道となっています。
 
 
 
   
  めだかの学校歌碑
横須賀市生まれの茶木滋が作詞、中田喜直が作曲して安西愛子の歌で1952年(昭和27年)にリリースされた童謡「めだかの学校」の歌碑で、古笠公園入口の手前、横須賀学院小学校の入口そばに建てられています。
 
 
 



三笠公園

横須賀新港に面して設けられている三笠公園は、 大日本帝国海軍の戦艦三笠を保存公開している都市公園で、「日本の歴史公園100選」、「日本の都市公園100選」に選ばれています。

戦艦三笠は日露戦争時の1905年(明治38年)5月に日本海海戦において連合艦隊旗艦として活躍した軍艦で、記念館として保存されており、世界三大記念館の一つとされています。

公園内には蒸気機関車51を模した飲み水タンクが備え付けられており、災害時に市民1万人に1日3ℓの水を3日間供給できるよう常時100トン備え付けられています。(我が町にはこんな公園ないですね・・・・)
 
 
 
  戦艦三笠の前には東郷平八郎元帥の像があり、向かって左には『皇国興廃在此一戦』と刻まれた碑があります。
この碑は日本海海戦の出撃に際して三笠のマストにZ旗を掲げ連合艦隊の各艦に対してモールス信号で送った、「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」の電文の一部です。
 
 
   
  三笠の全景
三笠は1902年3月に竣工した敷島型の戦艦で、排水量は15,140トン、全長131.7m、最大幅23.2mあって、15,000馬力のエンジンで最大速力18ノットで航続距離は約13,000kmの能力を有していました。装備は主砲が40口径30.5cm砲を4門の他に副砲が14門、補助砲が20文って魚雷発射管4門を備えていました。
 
 
 
 
 
  三笠の船首(左)と船尾(右)
  
 
 
   


軍艦行進曲の歌碑

パチンコ屋の店内で流れる「守も攻むるも黒鉄の・・・」でおなじみの「軍艦行進曲」ですが、初出は1893年(明治26年)、その後1900年(明治33年)に海軍軍楽師の瀬戸口藤吉の作曲によって誕生した曲です。
 
      
 
 


公園のメインモニュメントはステンレス製で高さが18mあり、光の当たり方で色がいろいろ変化します。
 
     
   
  公園からは東京湾唯一の無人島猿島があります。1時間に1便島との間に船が出ているので行って見ることに。  
     
     
     
     
     
     
     
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