横須賀まちあるき その1

横須賀市は、神奈川県にある三浦半島の大部分を占めており、東京湾の入口にあります。このことから江戸時代から国防の拠点とされ、下田にあった遠国奉行所が1720年(享保5年)に移設され、江戸湾に出入りする船舶の監視が行われていました。幕末には黒船が来航し久里浜に上陸し、開国のきっかけとなったところでもあります。
第二次世界大戦前には大日本帝国海軍の横須賀鎮守府が置かれ、軍港都市として栄えていました。その名残は今でもアメリカ海軍第7艦隊の司令部が置かれ、陸海自衛隊の駐屯地であることからもわかりります。

 
 
 
まちあるきはJR横須賀線の久里浜駅からスタートです。
 
 
 
 


ペリー公園

久里浜駅から歩いて約20分(京浜急行久里浜駅からは約16分)のところにある市立のペリー公園には、1853年(嘉永5年)に浦賀に来航したアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が上陸したことを記念して1901年(明治34年)に設置された「ペリー上陸記念碑」やペリー記念館があります。
在地:横須賀市野比3-25
 
      
 
   
正面はペリー上陸記念碑、右奥にはペリー記念館があります。
 
 
 
 


ペリー上陸記念碑

碑には「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と刻まれており、碑文の揮毫は初代内閣総理大臣伊藤博文公によるものです。
     
 
   
  碑の前には銅板のフレスコ画で、ペリーが1852年(嘉永5年)11月24日にミシシッピー号でアメリカのノーフォークを出港してから、マディラ島、ケープタウン、マラッカ海峡、香港そして上海を経て当時の琉球王国の那覇に至り、翌年7月8日に浦賀に来航し、7月14日にここ久里浜に上陸した経緯が記されています。
 
 
 
   


ペリー記念館のそばには、ペリー准将の出生地であるロードアイランド州ニューポート市から贈られた記念石が置かれています。
      
 
 
    
ペリー記念館
記念館にはペリー来航に関する歴史的資料や模型が展示されており、入口の両脇にはペリー提督と当時の浦賀奉行で折衝役を務めた戸田伊豆守の胸像が置かれています。
 
 
   
  じょうきせん上喜撰)の碑
公園内には「泰平のねむりをさますじょうきせん  たった四はいで夜も寝られず」と刻まれた「じょうきせんの碑」があります。
当時の江戸幕府は黒船来航で混乱していたとのことで、その混乱ぶりを風刺した狂歌ですが、実際に江戸時代の商人が詠んだ狂歌「太平之ねむけをさます上喜撰 たった四はいて夜も寝られず」とうたった狂歌が記された文が残されてるのが発見されているようです。
我々の時代は教科書でこの歌のことが記されていましたが、この狂歌が明治時代の創作であったといわれたことから現在では削除されているようです。
 
 
 
   


海軍工作学校跡の碑

1941年(昭和16年)に、大日本帝国海軍の従来の工機学校の一分野であった工作科を独立させ、横須賀工作学校として金工、木工、潜水などの工業技術教育が行われていました。

在地:横須賀市久里浜6-7-1
      
 
   
 



浦賀奉行所跡

1720年(享保5年)にそれまで伊豆の下田に置かれていた奉行所をこの地に移転して浦賀奉行所としたもので、江戸湾に入る廻船全ての積み荷を検査するとともに海防の役目を担わせたもので、ペリー来航時は一行を応接する役も担い、明治維新で横浜港が開港されるまで150年間海の関所となっていました。
2020年には奉行所開設300年を迎えることから地元の有志によって、現在わずかに奉行所跡地を示す堀割(右の写真)を含めて復元したいという動きが始まっています。
所在地:横須賀市西浦賀5-17-2
 
 
     
 
   
     
   
 
       
 


陸軍桟橋(上)

浦賀港に面してL字型の桟橋があるところは、かつて浦賀奉行所の出先機関であった船番所があったところです。
船番所は海の関所として江戸湾に出入りするすべての船の「船改め」を1872年(明治5年)まで行っていました。
昭和10年代には陸軍桟橋として用いられ、太平洋戦争終結の1945年(昭和20年)8月15日以後には、南方からの引き揚げ者が引揚船でこの桟橋に数十万人上陸し、帰国の第一歩をしるしました。
所在地:横須賀市西浦賀1-12
 
 
     
 
 

浦賀港引き揚げ記念の碑

「引き揚げ記念」て何のことと若い人たちは思うのではないでしょうか。私の場合は、舞鶴港でいつ帰還するかわからぬ息子を待つ母を歌った「岸壁の母」を、ラジオでよ聴いていたことを思い出します。碑文全体を以下に記します。

昭和20年(1945年)8月15日太平洋戦争終結、ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に送還された。ここ浦賀港も引揚指定港として中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万人余を受け入れた。
引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引き揚げ船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港、このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸。有史以来かつてない大防疫が実施された。
この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖でこの地の引き揚げ業務も幕を閉じ。
私たちは、再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。                  横須賀市
 
 
     
   
  咸臨丸出航の碑
ペリーが浦賀沖に現れてから7年後の1860年(安政7年)、幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため外国奉行の新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることとなりましたが、万が一のことを考慮して軍艦奉行木村摂津守喜武を指揮者とし勝鱗太郎以下日本人乗組員90有余名で品川沖を出発、横浜難破し米国測量船クーパー号の船員を載せて浦賀に入港。出港準備を整えて1月19日にサンフランシスコに向けて出帆しました。咸臨丸は39日かけてサンフランシスコに到着し、大任を果たしたのちの5月5日にここ浦賀に到着しました。
この碑はサンフランシスコにある「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように市内の愛宕山公園に建立されています。
所在地:横須賀市西浦賀1-9-3 
 
 
 
 


与謝野夫妻の文学碑

愛宕山公園には与謝野寛(号・鉄幹)と晶子夫婦の文学碑があります。
碑には、夫婦が同人たちとともに1935年(昭和10年)の3月3日に観音崎、浦賀、久里浜を吟行した際に詠んだ詩が刻まれています。
碑の右にあるのは寛の詩で「黒船を 恐れし世など なきごとし 浦賀に見るは 全て黒船」
左は晶子の詩で「春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸く」
と刻まれています。

なお、遊佐の寛はこの吟行の跡の3月26日に肺炎で62歳の生涯を閉じていますので最後の詩ともいわれています。
 
 
      
 
 


中島三郎助招魂碑

愛宕山公園の最深部にあるこの招魂碑は、浦賀奉行所の与力を務めていた中島三郎助の功績を残すため、三郎助の二十三回忌にあたる明治24年(1891年)に、同人の友人、知人たちによって建立されたものです。
ペリー艦隊が浦賀沖に来航した際に、浦賀奉行所の副奉行として旗艦サスケハナに最初に乗船した人物で、その後幕府が新設した長崎海軍伝習所の第一期生となり造船学・機関咢航海術を修め、江戸に戻ったのちは浦賀に日本初の乾ドッグの建設や咸臨丸の修理を行いました。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が没発した際には榎本武揚らとともに函館に移り函館戦争に参戦。五稜郭近くの千代ヶ丘陣屋で新政府軍から降伏勧告が出されるもこれを拒絶し、息子二人とともに戦死しました。ときに三郎助49歳でした。
 
      
 
 
愛宕公園から海岸通りに戻る途中こんな看板を見つけました。
なんでも日本龍馬会という団体が、浦賀湾を見下ろすこの位置に龍馬の顕彰碑を建立しようと運動しているようです。何時になったら実現するのでしょうか。
 
 
 
 


浦賀の渡し

浦賀の町で、浦賀奉行が置かれた1725年(享保10年)頃から運行されていたといわれ、「ポンポン船(正式名称は愛宕丸)」の愛称で親しまれているこの渡し舟は、水上区間ですが「浦賀街道」と名付けられた、横須賀市の市道2073号線の一部で、東渡船場と西渡船場の間を約3分で結んでいます。この渡し舟は横須賀市唯一の市営交通事業だそうです。
年末年始の休日以外荒天でもなければ休港せず、自転車も載せることができて大人200円、子供100円と格安の利用料金で、東渡船場から西渡船場まで歩いてゆくと25分以上かかりますので、市民にとっては便利な交通手段ではないでしょうか。
船が対岸にいるときは渡船場で呼び出しボタンを押せば営業時間内であればすぐに来てくれます。

所在地:横須賀市西浦賀1-1
 
 
     
   
  東渡船場から西渡船場に航行する愛宕丸。正面奥は房総半島の金谷付近となります。
 
 
 
 


吉田松陰・佐久間象山相会処(徳田屋跡)

東浦賀の渡船場のすぐ横には徳田屋跡の看板があります。ここ徳田屋は1811年(文化8年)に営業を許可された旅籠の内の1軒で、多く武士や商人が宿泊したとのことで、嘉永6年(1853年)には黒船を見るため訪れた吉田松陰が宿泊した際に佐久間象山と会っており、浮世絵師の安藤広重や木戸孝允(桂小五郎)などが宿泊しており、この地で時の移り変わりを現認していたようです。徳田屋は大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で建物が倒壊し、姿を消しました。

所在地:横須賀市東浦賀2-4-21
 
 
     
   
  叶神社(東叶神社)

叶神社は浦賀港を挟んで二社あり、こちらは通称「東叶神社」と呼ばれており、正保元年(1644年)の創建です。現在ある社殿は関東大震災後の昭和4年(1929年)に再建されたものです。境内の裏山(明神山)には戦国時代に北条氏が築いた三崎城の支城であった浦賀城がありましたが、城は豊臣秀吉の小田原攻め後に廃城となったようです。
所在地:横須賀市東浦賀2-21-25

 
 
 
   


勝海舟断食修行の折使用の井戸

神社の境内奥には、勝海舟が咸臨丸でワシントンに出港する前に断食修行をしたと伝えられている井戸です。
 
     
 
   


日西墨比貿易港の碑

神社境内に建立されたこの碑は、日(日本)西(西班牙=スペイン)墨(墨西哥=メキシコ)比(比律賓=フィリピン)間の貿易港として浦賀港がその役割を果たしたことの記念碑です。
慶長3年(1598年)に徳川家康がメキシコ(当時はスペイン領)から新精錬技術を導入するためフィリピンのマニラからメキシコのアカプルコへ向かうスペイン商船を浦賀に寄港させることを計画。そのため英人ウィリアム・アダムス
(日本名 三浦按針)を外交顧問として採用して交渉を行いました。
三浦按針はマニラに渡海し貿易交渉にあたった他、船大工の経験を買われて80tの西洋式帆船の建造に寄与するなどしましたが、バテレン追放令が公布された慶長18年(1613年)に長崎の平戸に移り、対外貿易が長崎平戸と限定されるま浦賀港は東国唯一の国際貿易港となっていました。
 
     
 
 


Googleマップを見ていたら浦賀駅の近くに「水のトンネル」なるものが表示されていました。早速寄って見ることに。
トンネルのところにある説明板では、1900年(明治33年)に操業を開始した浦賀ドッグが、タービン開発する際に必要な冷却水用の水を確保するために、約1000m離れた背面の高台にある溜め池から導水坑を造ったもので、その出口となっていました。
出口のところはどうやら民有地のようで、プランターやいろいろなものが置かれています。どうにかならないものかと調べたら同じように思った人が市役所に投稿していましたが、市の方では対処のしようがないと思っているみたいな回答がなされていました。
チョット残念ですね。
 
 
     
     
     
           久里浜浦賀のマップ  
     
     
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