ワルシャワ

ポーランドの首都であるワルシャワ、13世紀に旧市街が建設されレンガ造りの城郭都市として発展を続けた街です。1611年にはクラクフから遷都されポーランドの首都となり「北のパリ」ともいわれるほど発展を続けたとのことですが、18世紀末のポーランド分割により国としての機能を喪失するもワルシャワ市民は根強い民族運動を続け、1830年には11月蜂起、1863年には1月蜂起と抵抗を続け、1919年のパリ講和会議で国権を復活したのです。
その後1939年に勃発した第二次世界大戦ではナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことにより国家機能を再び失い、ワルシャワはドイツ軍の占領下におかれました。1944年8月1日には市民が一斉蜂起し、ナチス・ドイツ軍に対し徹底抗戦した「ワルシャワ蜂起」により街の80パーセント以上を破壊され、また市民20万人以上の犠牲者を出したほどでした。
大戦後市民は記録をもとに「壁のヒビ一本に至るまで」忠実に再現し、旧市街を見事に復活させたとのことですが、ポーランド人のたくましい姿に頭が下がります。
このワルシャワ旧市街は1980年ユネスコの世界遺産に「ワルシャワ歴史地区」として登録されました。

まずは近郊にあるショパンの世界を観光してからワルシャワ市街の観光です。
 
 
カンピノスの聖母マリア被昇天教会
バスがソハチェフに到着する10分ほど前にカンピノス村を通過しました。
道路沿いに建っていたのは1773年に建てられた聖母マリア被昇天教会です。全体的に黒っぽく見えるのはこの教会松材を使って建てられているとのことですが、石造りやレンガ造りの教会と比べるとずいぶん趣が違うものなんですね。
もう少し違う角度からも撮りたかったのですがバスは止まらずにそのまま通過です。
  
 
ショパンの生家
ショパンはワルシャワからバスで小一時間ほど西に離れたソハチェフの街のジェラゾヴァ・ヴォラという地区で生まれました。生家はソハチェフの街の中心部から少し離れたところにあるショパン博物館の中にあります。もともとこの地はスカルベク伯爵の領地であり、ショパンの一家が伯爵の子供の家庭教師をしていたことから提供されていたとのことで、1810年の3月1日(1809年の説もあるようです。)にここで生まれました。生家は消失したものの1945年に当時のままに再建され内部にはショパンの楽譜の複製や当時のピアノ(使われていたものではない)等が置かれています。
 
 

玄関側から撮影
  
中庭側から撮影
 
家族の肖像画
左上から父ミコワイ、母ユスティナ、左下から姉ルドヴィカ、妹イザベラ、ショパン、そして小さい肖像画は末の妹エミリアです。
 
       
 
     
博物館は大きな庭園があり中をウトラタ川という小川が流れています。ワルシャワに越したショパンも夏になると度々訪れたということですから、この庭園の中を歩きながら曲想を練っていたのでしょうか。
 
12時過ぎにワルシャワ市内に戻り昼食後にワルシャワ市街の観光です。  
 
王宮広場そばの城壁
13世紀に造られた城壁の一部(復元)
 
王宮広場と旧王宮(下左)と広場にあるシグムトン3世の像(下右)
旧王宮は16世紀末にクラクフから首都を遷都したポーランド王ジグムント3世の居城として建設されたあとに増築が繰り返され、18世紀後半には豪華な内装が施されたとのことですが、ナチス・ドイツのワルシャワ攻撃の際に徹底的に破壊されました。大戦後の1970年代には王宮の再建が行われ、再建なった建物内に戦争中には他所へ非難させていた重要な美術品や装飾類を配置することができるようになり、現在では博物館として開放されているとのことです。
 
    
  シグムトン3世像

シグムトン3世は、16世紀末から17世紀初めにかけてのポーランド・リトアニア共和国の国王でした。
 
旧市街市場広場
市場広場は旧市街の中心にあるため第二次世界大戦では跡形もなくは解されたとのことですが、中世の建物の様子を見事に復活させており、広場を取り囲んでカラフルな色合いの建物が建ち並んでいます。広場の中央には剣を振りかざした人魚像がありますが、この像はもともとはバルバカンのそばにあったものを移設したようです。
 
 
バルバカン
旧市街の北にあるこのレンガ造りのバルバカン、クラクフにあるのと同じに砦として造られたものですが、その後牢獄や火薬庫としても使用されていたことがあります。このバルバカンも第二次世界大戦の爆撃で破壊されましたが1954年に復元が行われました。
 
 
 
キュリー夫人の生家
ノーベル賞の受賞で知られるキュリー夫人(正式名はマリア・スクウォドフスカ=キュリー)はこの家で1867年に5人兄弟の末っ子として生まれ、苦学のうえ1903年に放射能元素の発見で物理学賞、1911年にはラジウムの研究で化学賞を受賞しました。
ちなみに放射能の現在の単位は「ベクレル」であることは、昨年の東日本大震災以降ほとんどの人が覚えていることと思いますが、1911年に決定された単位記号はキュリー夫妻にちなんで「キュリー」とつけられでいました。
なお現在この建物は「キュリー婦人博物館」として公開されています。
 
チャプスキ家宮殿(クラシンスキ家宮殿)
ジェラゾヴァ・ヴォラで生まれたショパンは、生後7ヶ月にワルシャワのこの家の3階に移り、青年時代まで過ごしていたとのことで、「ショパンが住んでいた家」として知られ、現在その部屋は「ショパンのサロン」として一般に開放されています。
 
ショパンのベンチ
ショパンゆかりの街ワルシャワにはショパンの生誕200年を記念して市内15箇所にこの「ショパンのベンチ」が設置されました。
ベンチにあるボタンを押すとショパンの曲の一部が流れ出します。
設置されている場所と流れる音楽は下記のHPで検索できます。
ワルシャワ・ショパンをめぐる散策
 
聖十字架教会
クラクフ郊外通りにあるこの教会は17世紀末に建てられたもので、ワルシャワに移り住んでショパンの一家が通った教会でした。パリで亡くなったショパンの心臓は「自分の心臓をワルシャワに」との遺言によりこの教会に埋葬されました。
教会はワルシャワ蜂起の際にドイツ軍の攻撃を受けて破壊され、心臓もドイツ軍に持ち去られましたが、戦後の1945年の10月に戻されたということです。下右はショパンの墓碑銘のある柱で祭壇に向かって左側にあり、彼の心臓はこの柱の下に埋葬されています。
 
   
     
 
 
ワルシャワ蜂起記念碑
1944年6月、それまで優勢を続けていたドイツ軍も、ソ連軍の戦闘参加で敗走が続き、ポーランド国内に駐屯するドイツ軍は防戦一方となっていた。同年8月1日市民が一斉蜂起しドイツ軍に対抗するものの、ヴィスワ川の対岸に陣を有していたソ連軍はこれに対して支援を行わず、ワルシャワ市内はドイツ軍に徹底的に破壊され蜂起に参加した市民20万人(一説には25万人)も殺害され同年10月2日に国内軍は降伏し、蜂起は失敗に終わりました。(ドイツ軍が連合軍に降伏するのはこの約7ヵ月後の1945年5月8日です。)
この一斉蜂起45周年を記念して記念碑が建てられたものです。(後方の建物は最高裁判所)
 
 

国立オペラ劇場
 
サスキ公園(後方の建物は無名戦士の墓)
 
文化科学宮殿
ワルシャワ駅のすぐ近くに立つ高さ237mの高さのワルシャワのランドマークです。
この建物はスターリンによってポーランド国民に寄贈する形で1955年に建設されヨシフ・スターリン名称(または記念)文化科学宮殿という名前でしたが、スターリンの死後単に「文化科学宮殿」という名称に変更されました。
   
 

ワルシャワ中央駅
   
  
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