上野公園散策 その1
 
    
台東区にある上野公園、正式名称は「上野恩賜公園」といい、上野駅の西側にある高台にあります。その歴史は、江戸時代に三代将軍徳川家光が鬼門を封じるため、江戸城の丑寅(北東)のこの地に東叡山寛永寺を建立、以来将軍家の墓所として約240年大伽藍の寺院となっていました。幕末の戊辰戦争では慶応4年5月15日(西暦では1868年7月日)に旧幕府軍の彰義隊が立て篭もったため、新政府軍が包囲し殲滅したため(上野戦争と呼ばれています。)伽藍は焼失一帯は焼け野原となりました。
その後この地を訪れたオランダの医師ボードウィンが公園として残すよう明治政府に働きかけ、明治6年(1873年)に日本で初めての公園に指定されました。公園は大正13年(1924年)に宮内省(現 宮内庁)から東京市に払い下げられたことから「上野恩賜公園」と名付けられたものです。
公園は広さ約53.8万㎡あり、園内には明治15年(1882年)に日本で最初の国立博物館(東京国立博物館)や付属動物園(上野動物園)が設けられ、その後文教施設が数多く設けられていて一帯が文化・芸術施設がある国内有数のと公園となっています。

写真は国立西洋美術館前の銀杏です。
       
  西郷隆盛像
「上野の山の西郷さん」として親しまれ東京の象徴的光景となっているこの銅像は、高村光雲の作によるもので、宮内省からの下賜金と全国からの寄付により、西郷さんの死後21年を経た明治31年(1898年)に建てられたものです。
傍らの犬は愛犬の薩摩犬で名前を「ツン」といい、後藤貞行の作です。
 
   
  彰義隊墓所
上野戦争で亡くなった彰義隊のお墓で、200名を超える隊士が眠っています。
上野戦争とは、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日)で敗れた幕府軍は、15代将軍徳川慶喜が上野の寛永寺に蟄居、その処遇を巡って一橋家の家臣をはじめ諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士達が尊王恭順勇士会を結成、後に渋沢栄一の従兄弟である渋沢成一郎を頭取に「彰義隊」と命名して寛永寺に集結、最盛期には4千人ほどに膨れ上がり、江戸市中取締を口実に放火・強盗を繰り返していました。
これに対し明治政府は解散勧告を行うも彰義隊が応じなかったため、大村益次郎指揮のもとに彰義隊討伐を決定し、慶応4年5月15日(1868年7月4日)未明に包囲して1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けました。
 
   
ボードウィン博士像
本名はアントニウス・フランシスカス・ボードウィン(1820-1885)といいオランダ出身の医師で、徳川幕府の招きで長崎養生所(現 長崎大学医学部の前身)の教頭として来日し、オランダ医学の普及に努めるほか日本の教育制度の充実に貢献しました。
上野に病院を建てる計画が持ち上がった時には一帯を公園とすることを提言したことから現在の上野公園ができたとのことで、「上野公園生みの親」と称されいます。
      野口英世(1876-1928)博士像
幼少時に左手を大火傷ししながら手術により不自由ながらも指が動くようになったことから医師を目指し、苦学の末に医師となって黄熱病や梅毒の研究を行い、自身も黄熱病に罹患してガーナで亡くなった野口英世の話は小学生時代に習った記憶がありますが、この銅像は、野口英世の偉業を後世に伝えるために昭和26年(1951年)に建てられたものです。
  
 
     
清水観音堂(重要文化財)
この観音堂は、寛永寺の伽藍のひとつで、寛永8年(1631年)に建立されたもので、千手観音を祀っており、懸造り建築となっています。
懸造りとは懸崖造り、舞台造りあるいは崖造とも呼ばれており、崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定して床下を支える建築方法で、京都の清水寺が有名です。
中央の松の木は「月の松」と呼ばれていて、歌川広重の「名所江戸百景」に「上野清水堂不忍ノ池」と「上野山内のまつ」として描かれていますが、最初の松の木は明治初期に台風の被害を受け亡くなっていましたが、平成24年に復建されたものです。
松の輪っかの部分から不忍池が見えるかと思いましたけど、前方にある木が成長していて残念なことに見ることができません。どうせなら少し配慮してくれるといいんですけどね。
     
 
     
  花園稲荷神社
創建時期は不明ですが、正式名称は忍岡稲荷といい、石窟の上にあったことから「穴稲荷」ともいわれています。上野戦争時においては彰義隊の最後の戦いである穴稲荷門の戦いの地となりました。
 
     
お化け灯籠
寛永8年(1631年)に信濃長沼藩の藩主であった佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の灯籠で、高さ6.06m、笠の周囲3.36mあり、その大きさから「お化け灯籠」と呼ばれています。
京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大灯籠とともに、日本三大灯籠に数えられています。
      時わすれじの塔
関東大震災(大正12年(1923年))、東京大空襲(昭和20年(1945年))の歴史を忘れないようにと、落語家林家三平師匠の妻海老名香葉子さん他によって、平成17年(2005年)に建立寄贈されたものです。
  
              
上野大仏
寛永8年に釈迦如来像が建立されたのが始まりで、天保14年(1843年)に新鋳再建されましたが関東大震災で大破、その後太平洋戦争において軍需金属資源として顔面部を除いて供出され、昭和47年に寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフ化して安置したものです。
    パゴダ
大仏の隣にあるこのパゴダは上野観光連盟が名所とすべく昭和42年(1967年)に建てたもので、
中には江戸時代末期まで東照宮の境内にあった薬師堂の本尊の薬師如来、月光菩薩、日光菩薩の薬師三尊像が安置されています。
 
 
     
  時の鐘
上野大仏のそばの小高いところにあるこの鐘は、寛永寺の鐘搗き堂で、最初の鐘は寛文6年(1666年)に鋳されており、俳聖松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだのは
貞亨4年(1681年)芭蕉44歳の時で、「花曇りの空に聞こえてくる鐘の音はここ寛永寺の鐘か、浅草浅草寺の鐘か」と思案しています。現在の鐘は天明7年(1787年)に鋳されたものです。
現在でも午前6時、正午、午後6時の3回搗かれており、「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。
 
   
上野東照宮
正式名称は「東照宮」ですが、他の場所にある東照宮と区別するため鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれています。伊勢津藩の藩主であった藤堂高虎が自分の敷地内に寛永4年(1627年)に創建、初代将軍徳川家康、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜が祀られており、境内にはボタン園が併設されていて冬と春にボタンまつりが開催されています。
 
     

  石造明神鳥居
寛永10年(1633年)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。入り口横にあるラーメン屋の幟旗がちょいと邪魔をしています。
 
    
山門
鳥居を過ぎて石灯籠の先にあるのが水舎と呼ばれる門ですが、普通神社に山門はありません。なんでも社殿のそばにある御水舎の屋根を昭和39年(1964年)ここに移築したもののようです
     
 
     
  銅灯籠
参道の両側にあるこの灯籠は諸大名より寄進された灯籠で50基(東照宮のHPでは48基とあります。)あり、重要文化財に指定されています。
 
       
唐門
重要文化財に指定されているこの門は、慶安4年(1651年)に造営された門で、正式には唐破風造り四脚門といい、扉の内外の柱には左甚五郎)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があり、内側の両側上部にある松竹梅と金鶏鳥の彫り物は室町・桃山の技術を集大成した傑作といわれています。
 
 
        

参道側から撮影
 
社殿側から撮影
 
        

唐門内側
 
諫鼓鳥の透かし彫り
 
       
透塀
社殿の四方を囲んでいる塀は慶安4年(1651年)に造られたもので国の重要文化財に指定されており、菱格子の向こう側が透けて見えため透塀と呼ばれており、上段と下段には動植物の彫刻が施されています。
 
 
   
   
社殿
権現造りで金色殿とも呼ばれる社殿は慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光により改築されたもので、国の重要文化財に指定されており、拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋で構成されています。内部は非公開となっています。
   
        
   
   
神楽殿
明治7年(1874年)に深川木場組合が奉納したものです。
   
   
  広島・長崎の火
太平洋戦争末期の昭和20年8月6日に広島に、そして9日には長崎に原子爆弾が投下され数十万人もの尊い命が奪われました。福岡県出身の山本達雄さんが廃墟と化して燃える広島の叔父さんの家の火を故郷に持ち帰り、形見の火、恨みの火として密かに灯し続け、村では「平和の火」として今でも灯し続けているとのことです。
この火は長崎の原爆に遭った瓦から採火した火と合火して灯し続けており、核兵器の廃絶を訴えています。
 
   
不忍池
上野公園の南端に位置する不忍池は周囲約2㎞あり、かつて上野と本郷の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことから由来するといわれている天然の池です。池は中央に弁天島があり、周囲及び中央に堤で仕切られた蓮池、ボート池、鵜の池があり散策にはもってこいの場所となっており、春は桜、夏は蓮の花と訪れる人を楽しませてくれています。
 
   
   
     
   
     
     
     
     
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