東福寺(2016.03.11撮影)
 
京都市東山区にある臨済宗の東福寺、正式名称を「慧日山 東福禅寺」といい、鎌倉時代の嘉禎(かてい)2年(1236年)に、ときの摂政であった関白藤原(九条)道家によって九条家の菩提寺として創建され、南都東大寺と興福寺から「東」と「福」の二文字をとって「東福寺」と名付けられ、大伽藍全体完成するのに19年を要したとのことです。
京都五山第四位の禅寺として中世から近世まで栄えていました。ここは2014年の秋の紅葉の時期に訪れたところですが、あいにく土砂降りの雨、リベンジのため訪れてみました。
 
   
    
北門と仁王門
JR奈良線の東福寺駅から伏見街道を歩くこと数分で北門(上左)に到着します。広大な伽藍を持っていたといわれる東福寺は伏見街道沿いに北門、中門そして南門とありますが、まずは北門からスタートです。門を抜けるとすぐ左側あるのが仁王門(上右)です。この仁王門は東福寺の塔頭である万寿寺にあったもので、慶長2年(1597年)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。
でも京都の街中歩いていて思うのですが、なんでこんなに電柱、電線が残っているのでしょうか。市では昭和61年度から無電柱化事業を推進しているとありますけど、せっかくの文化財を見るのにこれでは艶消しですよね。
 
     
退耕庵
東福寺の塔頭である退耕庵は貞和2年(1346年)の創建で、戦国時代に入るきっかけとなった室町時代の応仁の乱により衰微するも、江戸時代に入っての慶長年間(1596~ 1615年)に安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)によって再興された寺です。
寺には石田三成と宇喜多秀家が関ヶ原の戦いの謀議を行ったとされる昨夢軒(さくむけん)と名のついた茶室があり、護衛の士が控えていた伏侍の間も残されているとのこと。
又、地蔵堂には小野小町宛ての恋文を体内に納めているといわれる玉章(たまずさ)地蔵と称される地蔵菩薩坐像のほか、小野小町100歳像などを安置されています。
慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは長州藩の陣が東福寺に置かれていたことから、戦死者の菩提寺となっています。
なお拝観には予約が必要とのことです。
   
     
臥雲橋(がうんきょう)
慶長8年(1603年)に三の橋渓谷に架けられた、単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊で、通天橋、偃月橋とともに東福寺三名橋と呼ばれており、重要文化財に指定されています。
   
 
     
  臥雲橋から望む通天橋と三の橋渓谷
春まだ浅い季節ですので木々は葉も出そろっておらず寒々としていますが
、紅葉の季節は写真撮影ポイントとなります。
 
     
  日下門
北門から歩いて約10分日下門に到着、江戸時代に建てられたもので京都府指定の文化財となっています。門を潜っていよいよ境内に入ります。
 
     
  禅堂
日下門を通ってすぐ右側にあるのがこの禅堂です。貞和3年(1347年)に再建されたこの禅堂は、わが国最大最古の座禅道場で、単層裳階付き切妻造りの構造となっています。
 
     
  殿鐘楼(手前)と経蔵
殿鐘楼は、正式名称を「東福寺殿鐘楼」といい室町時代後期の建築といわれ、経蔵は寛政5年(1793年)に再建されたもので、開山した僧円爾が宋から持ち帰ってきた経典が収蔵されています。
 
   
   
東司(とうす)
東司は室町時代に造られた日本で最大最古の禅宗式の便所で、多くの修行僧が一度にここで用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん)」と呼ばれていました。
 
     
  六波羅門
境内南側にある鎌倉時代前期に建てられた門で、重要文化財に指定されており、六波羅探題にあった門を移築したことからこの名前が付けられました。(2014.12.01撮影)

六波羅探題とは鎌倉幕府の職名のひとつで、承久の乱の後に御家人の統率、洛中の警備にあたっていた京都守護を改組して京都六波羅の北と南に設置し、京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた組織です。
 
     
  三門
足利義持が応永32年(1425年)に再建した現存する禅寺の山門としては最大最古のもので、上層には釈迦如来と十六羅漢が安置されており、国宝に指定されています。
 
     
   
本堂(仏殿兼法堂)
明治23年(1881年)に発生した火災で、仏殿と法堂が焼失し、昭和9年(1934年)に入母屋造り裳階付きで再建されたもので、昭和期の木造建築としては最大級となっています。天井には日本画家堂本印象による蒼龍図があります。
 
     
  方丈の唐門
明治42年(1909年)に造営されたもので、明治天皇の皇后であった照憲皇太后より下賜されたものです。
 
     
  庫裏
明治43年(1910年)に切妻を正面にする禅宗式寺院の典型の様式で建てられたもので、方丈の唐門と同じく照憲皇太后より下賜されました。
 
     
  偃月橋(えんげつきょう)
三の橋川に架かる桟瓦葺きの木造橋廊で、通天橋、臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれており、慶長8年(1603年)に再建されたもので、日本百名橋のひとつに選定されていて、国の重要文化財に指定されています。
 
     
通天橋
東福寺三名橋のひとつで、南北朝時代の天授6年(1380年)に三の橋川の渓谷である洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊で、方丈と常楽庵の間を結んでおり、秋の紅葉の時期は絶好の撮影ポイントとなるところです。現在の橋は昭和56年の台風で崩壊した後の2年後に再建されたものです。
 
     

                         (2014.12.01撮影)
 
 
 
     
   
     
常楽庵
伽藍の北側にある常楽庵内にある開山堂は、文政2年(1819年)に火災で焼失し、その2年後に再建されたもので、二階建ての楼閣部分は伝衣閣(でんねかく)という名で、金閣、銀閣、西本願寺の飛雲閣、大徳寺塔頭の芳春院の呑湖閣とともに「京の五閣」と呼ばれてており、重要文化財に指定されています。
   
 
     
  普門院
常楽庵の一角をなす普門院は、常楽庵の庫裏と客殿であり、白砂だけで造られた前庭は、石庭とはちょっと違た趣きを感じます
 
     
  愛染堂
塔頭のひとつである万寿寺にあったもので、南北朝時代に朱塗りの八角堂で杮葺きで建てられたもので、藍染明王を祀っており昭和12年(1937年)に移築されたものです。
 
      
五社成就宮
東福寺の鎮守社として、石清水八幡、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社を祀っており五社明神社とも呼ばれています。
    
 
     
伏水(伏見)街道第三橋の親柱
豊臣秀吉が天正或は天禄年間に京と伏見を結ぶ道として開かれた道といわれ、五条通(京都市東山区)を始点として、鴨川沿いを通って伏見の京町通りまで続いていました。
街道は、江戸時代から、京と港湾都市伏見とをつなぐ通運の道として、そして周辺名所を巡る観光の道として賑わい、伏見から深草藤森神社までは西国大名の参勤交代の道ともなっていました。
伏見街道には4本の橋が架けられ、それぞれ北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋といわれ、この第三橋(三ノ橋)は東山から流れ東福寺境内の洗玉澗を通って鴨川に合流する細い川(三の橋川)に架かる石橋で明治6年(1873年)に架けられたものです。
   
     

                    洗玉澗の紅葉(2014.12.1撮影)
 
 
     
     
     
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