鳥取城(2014年4月7日撮影)

鳥取市の中心部に近い久松山(きゅうしょうざん)に造られた鳥取城、戦国時代の天文年間(1532〜1555年)に因幡の守護である山名誠通又は但馬山名氏のいずれかが築城したとされていますが、定かではないようです。
城をめぐっては毛利勢と織田信長の家臣であった羽柴秀吉の戦いが繰り返され、天正9年(1584年)4月に秀吉は2度目の鳥取城攻撃を開始し、4ヶ月もの兵糧攻めで、信長公記に「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されるほどの責苦により、遂に毛利勢の城主吉川経家が自決して開城、戦いが終結しました。この城わかっているだけでなんと6度も落城しているとのこと。
江戸時代に入ってからは池田氏が代替わりしながら明治維新まで治め、廃城令後も存城が決まりましたが、その後鳥取県が島根県に併合(併合期間は明治9年から14年まで)されることとなり破却の運命にいたりました。
現在では復元された中仕切門と石垣が当時の面影を残しているだけですが城址全体が久松(きゅうしょう)公園として整備されており、日本100名城の63番に選定され、また、日本のさくら名所100選にも選定されていて、桜の時期に訪れる人が少なくありません。
        
標高263mの久松山の山頂には「山上の丸」と呼ばれた本丸部分があり、天守、車井戸、着見櫓(つきみやぐら)、多門櫓などの建物がありました。
なお、着見櫓は月見櫓と名前は似ていますが、
着到櫓(ちゃくとうやぐら)とも呼ばれる将兵の到着などを確認するための物見櫓です。
 
   
 
 
仁風閣
 
久松公園内にあるこの建物、
明治40年(1907年)当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられたものでフレンチルネッサンス様式の西洋館で、館名の命名者は時の海軍大将東郷平八郎によるとのことで、中国地方に残る明治建築のひとつであり国の重要文化財に指定されています。中は見学できるようですが、訪れたのが月曜日で休館日、最もツアーでの訪問で見学予定に入っていないので外部撮影のみとなりました。
 
 
 
 
中仕切門(西坂下門)
二の丸の登り口にあり、明治維新直前に建てられ市民の間で「お城の門」として親しまれていたが昭和50年(1975年)に強風により倒壊、その後再建されたものです。
 
   

二の丸への階段

附太閤ヶ平二の丸跡
 
   
石切り場跡
附太閤ヶ平にあるこの石切り場では二の丸造成に必要な石を切り出したてたとのことです。
 
 

二の丸の高石垣
野面積みで築かれている石垣、最初の傾斜は緩やかですが最上部は垂直に近い勾配となっています。
 
 

これも二の丸の石垣です。普通の石垣は上の写真のような形ですが、でもこんな形での石垣なんて珍しいです。武者走りのような使い方をしたのでしょうか。  
   
二の丸御三階櫓跡
二の丸の南西隅建てられていた三層三重の隅櫓があったところで、元禄5年(1692年)に天守が落雷により焼失した後は鳥取城を象徴する建物であった。その後享保5年(1720年)に城下で発生し鳥取藩史上稀代の大火となった「石黒火事」で城内が全焼した際にも再建されており、廃城令後の破却の際に取り壊された。
 
   
 
 
天球丸
平山城部の最高所にあり、関ヶ原の戦いの功により城主となった池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していたところで、三階櫓、御風呂屋御門などの建物があったところです。
 
    
天球丸の巻石垣
平成24年に復元されたこの巻石垣は、石垣のたわみによる崩落を防ぐため、球面を持つ巻石垣によって石垣下部を補強する目的で江戸時代の終わり頃に築かれたもので、巻石垣は港や河川の工事に用いられるのが多く、城郭で用いられているのはここ鳥取城だけのようである。
 
 
   
袋川
市内を流れるこの川は江戸時代初期の藩主池田光政によって鳥取城の惣堀(総堀或いは外堀ともよばれる)として開削された人工河川です。
 
   
袋川沿いの遊歩道は桜並木となっており、「ふるさとの歌の道」と名づけられており鳥取出身の音楽家の音楽が流れるメロディの箱が設置してあります。  
 

鳥取城二の丸で見る鳥取市街
 
   
    
       トップページに戻る    米子城を見る