米子城(2015.11.04撮影)      

 
中海を見下ろす湊山に築かれていた米子城、その歴史は戦国時代の文明2年(1470年)頃に、湊山からほど近い飯山(いいのやま)の山頂に伯耆の国守護の山名宗之によって郭が設けられたのが始まりとされています。
本格的な城郭は天正19年(1591年)に東出雲、隠岐、西伯耆の領主となった吉川広家が飯山の東にある湊山に築城を開始しましたが、関ヶ原の戦いで敗れ岩国に転封となり、代わって関ヶ原の論功によって伯耆一国17万5千石を領して入封した中村一忠(注 関ヶ原の論功は父中村一氏が豊臣三中老であったが関ヶ原の戦いでは徳川方に与するも戦いの直前に死亡したため、11歳で家督を継いでいます。)によって慶長7年(1602年)頃に完成しました。
中村一忠は慶長14年(1609年)20歳の若さで急死、家系断絶により改易となり、加藤貞泰が6万石で入封、その後元和3年(1617年)に貞泰が伊予大洲に移封されると米子藩は廃藩となり、鳥取藩池田光政が伯耆・因幡の領主となり、その一族であり池田家家老であった池田由之が播磨国明石から城代として入り、池田氏が岡山に国替えとなると家老の荒尾氏が明治に至るまで城代として米子に駐在しました。
明治に入ってから城は士族に無償で払い下げられ、その後切り売りされて石垣を残してすべての建物は取り壊されました。湊山の土地は現在湊山公園として整備されており、国の史跡に指定されており、続日本100名城の169番に選定されています。
  
 
  二の丸枡形門跡の石垣  
        
   小原家長屋門
小原家は城代であった荒尾氏の家臣で禄高120石、城下西町にあった屋敷の長屋門で江戸時代中期の建築といわれ、木造瓦葺き入母屋造りで建てられており、米子市内に残る江戸時代の建物では唯一のもので、昭和28年(1953年)に米子市に寄付されて二の丸跡に設けられている市営湊山庭球場の南に移築され、一時期米子市立山陰歴史館として利用されていました。
 
     

御殿御用井戸跡
 
内膳丸への階段
 
     

  本丸の石垣
左は小天守台、右は三段の石垣となっており大天守台がありました。
 
   
  大天守台の石垣
四重五層の天守閣が設けられていました。
 
     

番所跡
 
鉄御門跡
 
      
   
大天守(左は天守の礎石、右は東側から見る天守の石垣)
慶長5年(1600年)に中村一忠によって小天守の横に建てた四重五層の天守閣であり、高さは21mほどあったといわれ、本城であった鳥取城の天守よりも大きかったとのこと。
 
    
  小天守跡
天正19年(1591年)に吉川広家が建てた初代の天守といわれ、古天守、副天守または四重櫓とも呼ばれていたようで、独立式望楼型三重四層の大型櫓が建てられていたとのこと。
 
     

天守台側から見る水手御門跡
 
二の丸側から見る天守閣虎口
 
     

二の丸遠見櫓跡(月見櫓とも呼ばれています)
 
本丸石垣と米子の街並み
 
    
天守台からの眺望は絶景です。お城の建物はありませんが、これだけの景色が見れるところはそう多くはありません。
 
 
  米子の街並みと大山
大山は標高は1724mあって中国地方の最高峰で、角盤山、伯耆大山、伯耆富士とも呼ばれており日本百名山のひとつです。
 
     
  米子の街並み
正面奥には日本海、そして島根半島が見え、更にその奥に写真ではわかりにくいですが隠岐の島がうっすらと見えています。
 
   
  中海  
     
   
     
  お菓子の城寿城
米子自動車道米子ICを降りるとすぐのところにある米子城をモデルにしたお菓子のテーマパークです。(2014.04.08撮影)
 
     
   
     
     トップページに戻る