東京歴史さんぽ その9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
商店街の太陽光発電 とげぬぎ地蔵に行くため巣鴨駅で電車を降り白山通りを歩きだしたところ、商店街のアーケードに太陽光発電のソーラーパネルが据えつけられています。 写真を撮るためあちこち回りますが、街中の商店街でこのような光景にあうのは初めてです。 |
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巣鴨地蔵通り商店街 白山通りから左斜めに入ると巣鴨地蔵通り商店街です。ここは「おばあちゃんの原宿」とも呼ばれている通りで、江戸時代は、旧中山道の最初の休憩地(当時は「立場(たてば)」と呼ばれていました。)でした。通りは、庚申塚まで約800mほど両側に商店街があり、途中に「とげぬき地蔵」で有名な高岩寺があります。 |
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高岩寺 商店街に入って約180mで高岩寺に着きます。 「とげぬき地蔵」の通称で知られるこのお寺は、慶長元(1596)年に江戸は神田の湯島で創建され、その後下谷屏風坂に移転、更に明治24(1891)年に現在地に移ったもので、昭和20年の東京大空襲の被害で全焼し、昭和32(1957)年に再建された曹洞宗のお寺で、正式には萬頂山高岩寺といいます。 「とげぬき地蔵」の名の由来は、江戸時代の正徳3(1713)年に、小石川に住んでいた田付又四郎の妻が病に苦しみ死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされています。 その後毛利家の女中が針を誤飲し、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあって「とげぬき地蔵」と呼ばれるようになったとのことです。 他の病気の治癒改善にも御利益があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。 寺の境内はそれほど大きくありませんが、訪れる人も多く門を潜ってすぐのところにある常香炉は、訪れる人があげた線香からの煙が途切れることなく上がっています。 (所在 豊島区巣鴨3-35-2) |
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本妙寺 元亀2(1572)年に、遠江国曳馬(現在の浜松市中区曳馬)に日慶により開山された法華宗陣門流のお寺で、正式名称は、徳栄山総持院本妙寺といい、徳川家康の江戸入府の際に江戸に移り、その後幾たびか移転したのちに元和2(1616)年に小石川に移転。しかしながら寛永13(1636)年の火災で伽藍が全焼して本郷丸山(現在の文京区本郷5丁目付近)に移る。明暦3年には寺でのお施餓鬼のお焚き上げが原因とされる明暦の大火で焼失。その後再建されましたが、明治43(1910)年に現在地に移転しています。 (所在 豊島区巣鴨5-35-6) |
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明暦の大火供養塔 明暦3年1月18日(1657年3月2日)、当時本郷丸山にあった本妙寺より出火、神田、京橋方面に延焼、翌19日には小石川伝通院表門下にある大番集与力の宿所から、更に20日には麹町より出火し、江戸城外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。 死者は諸説ありますが、3万から10万人と記録されており、被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれています。 火事の原因は、振袖を寺で焼いて供養していたことから振袖火事と呼ばれるようになりましたが、原因には諸説あって、幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説、実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷で、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により、阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたとの説もあり、本妙寺が廃寺にならず再建できたことから、これが真説ではといわれているようです。 明和の大火は、目黒行人坂の大火とも呼ばれ、目黒にある大円寺から出火した火事で、明和9年2月29日(1772年4月1日)に発生し、麻布、京橋、日本橋、神田そして千住方面まで被害が広がり、類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数え、被害にあった死者は1万4700人、行方不明者は4000人以上といわれています。 文化の大火は、丑寅の大火もよばれ、文化3年3月4日(1806年4月22日)に芝車町(現在の港区高輪2丁目近辺)より出火、薩摩藩上屋敷、増上寺五重塔を全焼して、京橋、日本橋、神田、浅草と広範囲に被害にあい、焼失した家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われています。 |
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巣鴨プリズン跡 池袋のサンシャインシティのそばにある東池袋中央公園の片隅に設置されたこの碑は、明治時代に置かれた「巣鴨監獄」が、大正11(1922)年に「巣鴨刑務所」と改称され、昭和10(1922)年に「東京拘置所」となったところです。所内には処刑場も設置されていてスパイ事件で有名なゾルゲ事件の主犯であるリヒャルト・ゾルゲらが処刑されています。 さらに、第二次世界大戦による敗戦でGHQに接収され「巣鴨プリズン」と名付けられ、戦争犯罪容疑者が多く収監され、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた東条英機をはじめ約60名がここで処刑されています。拘置所は昭和46(1971)年に葛飾区小菅に移転しています。 石碑は、スガモプリズンで亡くなった人たちへの慰霊碑「平和の碑」で、処刑場があったとされるところにあり、正面には『永久平和を願って』と刻まれ、裏面には『第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。 昭和五十五年六月』と刻まれています。 言葉が省略されているのでわかりずらいですが、「戦争による悲劇を再びくりかえさないため」というのが、『悲劇』の意味が、多くの市民が犠牲になったという風に解釈したいと思います。 訪れたとき場所がよくわからないので、近くにあった交番で聞いたのですが、若いお巡りさんもわからず、公園にいた多くの若者も見向きもしないといった感じでした。 |
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