東京歴史さんぽ その10(南千住界隈) | ||||||||||
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相馬大作供養碑 相馬大作とは、江戸時代の南部藩士下斗米秀之進の別名で、弘前藩主津軽寧親の相馬大作事件(暗殺未遂事件)の首謀者でした。 相馬大作事件とは、南部氏の一族であった大浦氏(後の津軽氏)が独立し、南部氏の領地を奪取した安土桃山時代から続いていた盛岡藩と弘前藩の確執が、文政3(1820)年に弘前藩津軽氏の石高が主家筋であった盛岡藩南部氏の石高を超えたことから、藩内に不満が増大。 翌年になって下斗米秀之進は、弘前藩主津軽寧親に果し状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を予告。 これを無視した津軽寧親を暗殺しようと、参勤交代で帰国する途中の秋田県角館において同志ら数人と襲撃を企てるも、密告により未遂に終わり、捕縛を逃れるため相馬大作と名を変えて江戸に隠れ住んでいましが、幕吏に捕らえられて、小塚原刑場で文政5(1822)年に獄門の刑に処せられ事件です。 |
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桜田十八烈士の墓 安政の大獄後の安政7年3月3日(1860年3月20日)、ひな祭りのため在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっており、降りしきる雪の中、彦根藩上屋敷(現在の千代田区永田町1-1-1憲政記念館)を出発した大老井伊直弼の一行は、桜田門近くで待ち受けていた関鉄之助をはじめとする水戸浪士達18名の襲撃を受けて井伊直弼が落命、斬首された『桜田門外の変』、に加わった「桜田烈士」または「十八烈士」とも呼ばれる浪士たちの墓です。 |
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左より 江戸時代後期に大名屋敷を中心に窃盗を繰り返し、義賊とも呼ばれ小塚原で処刑された鼠小僧次郎吉(本名は次郎吉)の墓(両国回向院にも墓があります。) 河内山宗俊とともにゆすり、たかり、詐欺などを繰り返し、小塚原で刑死した「直侍」こと片岡直次郎の墓(墓は吉原の遊女三千歳により建立されています。) 明治初期に夫を毒殺し「明治の希代の毒婦と呼ばれ、日本で最後に斬首刑となった高橋お伝(本名 でん)の墓(墓は谷中霊園にもあります。) 江戸時代の侠客で、傷を負った自分の腕を子分に鋸で切り落とさせた、腕の喜三郎こと野出の喜三郎の墓 |
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千住大橋 最初に架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3(1594)年のことで、現在の位置より200mほど上流にあった「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」の渡船場があったところとされており、隅田川に最初に架けられた橋でした。橋は単に「大橋」と名付けられ、佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋となっていました。「千住大橋(小塚原橋とも呼ばれていました。)」と呼ぶようになったのは、下流に両国橋などが架けられてからのようです。 橋は何度も架け替え、改修が行われ、昭和2(1927)年に現在のような鉄橋となったもので、橋の構造であるタイドアーチ橋としては日本最古のものです。 所在地:荒川区南千住6丁目付近 |
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素戔雄神社 延暦14(795)年に役小角の弟子である黒珍が、牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩を祀って創建したと伝えられる神社で、古くから厄病除けで知られ、江戸時代にコレラが流行した際には、疫除守を求めて参詣者が群れ集まりました。明治時代に入っての廃仏毀釈により、祭神名を素盞雄大神・飛鳥大神へ改め、社名も素盞雄神社へ改称しています。 境内には、松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ち記念碑があります。 また、3年に一度6月に行われる「天王祭」では重さ千貫の神輿渡御が行われますが、普通の神輿は担ぎ棒が4点棒(井桁の状態)であるのに、前後方向の二点棒の神輿で、これを左右に振りながら担ぐということですから、かなり見ごたえがあるのではないでしょうか。 所在地:荒川区南千住6-60-1 |
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社殿 |
社殿前の獅子山と狛犬 |
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神楽殿 |
左から福徳稲荷、菅原神社、稲荷神社 | |||||||||
社殿の横には芭蕉の碑がありますが、手前には千住大橋に見立てた小さな石橋があります。 | ||||||||||
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富士塚 元治元(1864)年に設けられたもので、頂上には浅間神社があり、当時は参詣する人で大いに賑わっていたようです。 |
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瑞光石 素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩と いわれ、伝承によると、文政12(1829)年に編纂された「江戸近郊道しるべ」の中に、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現隅田川)まで延びていた為に橋脚が打ち込めなかったとされています。 |
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旧千住製絨所跡 明治維新後、新政府で使用する軍服、制服等は輸入により賄われていましたが、外貨の減少を抑えるために国産化することが検討され、被服製造技術を学ぶため技師をドイツに派遣するとともに、千葉県内に牧羊場を設けて羊毛の生産を開始、明治12(1879)年にこの地に千住製絨所が完成して生産を開始しました。 工場は、その後火災により焼失し、再建後は国内繊維・被服産業の発展に大いに貢献していましたが、昭和20(1945)年敗戦により一切の操業を停止。その後民間に売却ましたが、業績不振により昭和35(1960)年に閉鎖、製絨所は80余年の歴史に幕を閉じています。 跡地は一時期大毎オリオンズ(現 千葉ロッテマリンズ)の本拠地野球場東京スタジアムとなっていましたが、親会社の大映の経営破たんにより閉鎖撤去され、現在は煉瓦塀が一部残るだけとなっています。 写真は都立荒川工業高校グランド付近の塀です。 所在地:荒川区南千住6-42-1 |
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井上省三像 井上省三は、旧長州藩士で奇兵隊隊長として倒幕運動に参加。明治維新後は4年間ドイツにおいて被服製造技術を学び、千住製絨所の初代所長として、それまで輸入に頼っていた羊毛製品、洋服の国産化を実現した井上は、「日本毛織物工業の父」と称されています。 所在地:荒川区南千住6-43(荒川スポーツセンター横) |
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彰義隊士の墓(右)と死節の墓 上野戦争で戦死した彰義隊士の供養を行い、荼毘に付して266体の遺骨を境内に埋葬しています。また、死節の墓は、神田の雑貨商であった三河屋幸三郎が、自らの別荘内で彰義隊をはじめ鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者を供養していたものをこの地に移設したもので、土方歳三、近藤勇などの名前と「神木隊二十八名」と刻まれています。 このほか榎本武揚や後藤鉄次郎をはじめとする彰義隊士の供養碑、神門辰五郎の碑などがあります。 |
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