東京歴史さんぽ その7
 
 
旧岩淵水門
 
地元の人たちに「赤水門」と呼ばれているこの水門は、大正13年(1924年)に荒川と隅田川の分岐点に設けらた水門で、荒川上流からの流量が増えた場合岩淵水門を閉め切って、隅田川の洪水を防ぐために、RC造(一部S造)で、9m幅のゲート5門という構造で設けられました。
水門は完成以来地盤沈下で悩まされ、昭和35年(1960年)に下流に新水門(通称「青水門」)が完成したことによりその役目を終え、取り壊されることとなりましたが、土木建築物としての価値が高いと再評価され、産業考古学会によって推薦産業遺産に、そして東京都選定歴史滝建造物に指定されています。(所在 北区志茂5-41-21先)
 
上流側から撮影
 
         

下流側から撮影
 
水門公園への歩道橋から撮影
 
     
岩淵水門
青水門と呼ばれる新しい水門は、赤い水門の300mほど下流にRC造で、10m幅のゲート3門で構成されており、200年に一度の大洪水にも耐え得るように造られています。
   
       
妙義神社
 
江戸時代に記された「新編武蔵風土記稿」によると日本武尊が東征の際にこの地に陣地をしき、後に社を建立し白雉としたのが始まりとされていて豊島区最古の神社といわれています。
後に太田道灌が足利成氏、豊島勘解由左衛門、千葉孝胤との戦いの前に戦勝祈願を行って何れも勝を得たことから「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれていたようです。(所在 豊島区駒込3-16-16)
    
 
        
染井吉野桜記念公園
 
山手線駒込駅を降りてすぐのところにある小さな公園ですが、公園の南側に「染井吉野桜発祥の里 駒込」の碑があります。
江戸時代この辺りは染井と呼ばれていて花卉の生産が盛んなところであったようで、
エドヒガンザクラとオオシマザクラの交配でできた園芸品種の桜を「ソメイヨシノ」と名付けられ、これが日本各地に広がっていったとのことです。公園にはソメイヨシノの原種とエドヒガンザクラ、オオシマザクラが植えられているとのことですが、花の時期にでも来てみないとわからないですね。(所在 豊島区駒込2-2-1)
 
   
     
  駒込橋の旧欄干
染井吉野桜記念公園の西側の本郷通の歩道と東京メトロ南北線の4番出口の間にあるこの欄干は、大正12年(1923年)に山手線の上に架けられた初代の跨線橋です。看板も何も設置されていないので、気が付かずに素通りする人が殆どのようです。
 
   
駒込富士神社

天正元(1573)年、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した のが始まりとされていますが、建立年月ははっきりしていないようです。その後寛永5(1628)年に加賀藩前田氏が上屋敷をその地に賜るにあたって浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町に移し、その後現在地に合祀し現在に至っています。
神社は駒込のお富士さんと親しまれた富士山を模した山の上に拝殿が設けられており、江戸時代の後期に流行した数多い富士講の中でも町火消しの間で深く信仰され、境内には奉納された町火消の纏(まとい・シンボルマーク)を彫った石碑が数多く飾られています。
初夢に見ると縁起が良いとされている「一富士、二鷹、三茄子」はこの地で読まれた川柳で、一富士は富士神社、二鷹は付近の鷹匠屋敷(現在の駒込病院付近)、三なすびは良質のなすびが駒込で採れたことから、こう詠まれたようです。
(所在 文京区本駒込5-7-20)
     
 
     
   
   
小御嶽社
小御嶽は現在の富士山が形成される以前の山で、山岳信仰の霊地とされていました。
下にある二三夜講は、月待ちといって、月齢二十三日の日を忌み篭りの日として、講中が集まり月の出を待って月を拝むものです。月待ちというと二十三夜と言われるように、全国的に広まっていた信仰でした。
      富士神社祠   
 
   
吉祥寺
 
正式名称が諏訪山吉祥寺というこのお寺は、長禄2年(1458年)に太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」刻まれた金印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれており、山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによっています。後に徳川家康のの関東入府にともなって駿河台(現在の都立工芸高校の周辺)に移り、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火と江戸大火によって現在の地に移転したものです。
境内には現在の駒澤大学となる学寮「栴檀林」が設けられ、常時1000人も僧が学び、幕府の学問所である「昌平黌」と並んで漢学の研究地となっていました。また、境内は七堂伽藍を有するほどでしたが第二次世界大戦時の東京大空襲により焼失し、当時の寺堂は山門と経蔵だけとなっています。
寺には大名や旗本の墓所もあり、松前藩主の松前氏広、目付、南町奉行、勘定奉行を務めた旗本の鳥居耀蔵、幕臣で戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となり、その後明治政府に仕えた榎本武揚などのお墓があり、また、二宮尊徳の墓碑、八百屋於七・吉三郎の比翼塚などがあります。
因みに武蔵野市にある吉祥寺は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの現在地に移住し、開墾したことによるものとのことです。(所在 文京区本駒込3-19-17)
   
     
     
山門には「栴檀林(せんだんりん)」の扁額が掲げられています。   境内には栴檀の大木があり、実をつけていました。
 
   
お七・吉三郎の比翼塚
比翼塚とは、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のことをいいますが、悲恋と共に伝わる例が多く、一緒になれなかった二人を死後、一緒に祭った例も少なくありません。
この比翼塚も井原西鶴の「好色五人女」にお七の悲恋の物語が描かれている八百屋お七と寺小姓の吉三の比翼塚で、文学愛好者により建立されたもので。
お七のお墓はここから少し離れた圓乘寺にあります。
      釈迦如来坐像   
 
    
経蔵
創建当初の貞享3年(1686年)に建立された経蔵には仏教に関係する経典や学寮「栴檀林」の蔵書が収蔵されていましたが、安永7年(1778年)に焼失しており、現在の経蔵は文化元年(1804)に再建されたもので、文京区の有形文化財に登録されています。す。
 
   
     
二宮尊徳の墓碑
「二宮金次郎」で知られる江戸時代の農政家で、安政3年(1856年)下野今市(現在の栃木県日光市今市)で病没し、今市市二宮神社にお墓がありますが、こちらは翁の冥福を祈って建立された墓碑で、碑の隣には蒔を背負った小さな二宮金次郎の石像もあります。
   
 
     
  駒込名主屋敷の表門
 
宝永年間(1704~1710年)に建てられたというこの薬医門形式の門は、上駒込村(現在の駒込地区の北側)の名主であった高木家のもので、家屋も同時代に建てられたそうですが、火災により焼失し享保2年(1717年)に再建されており、東京都の指定文化財となっています。
(所在 文京区本駒込3-40-3)
 
     
  駒込土物店跡の石碑
 
本郷通りの浅嘉交番のそばにあるこの碑は、江戸時代に神田、千住とともに三大市場のひとつであった市場がおかれていたところで、元和年間(1615~162年)に近郊の農民が野菜を売りに出かけてきてこのあたりで休むことが多かったようで、ここに付近の住民が買い求めにやってきたのが市の起こりとされていて、「駒込のやっちゃ場」と呼ばれていました。
この近辺は駒込茄子の生産地でもあり、大根、人参、牛蒡などの土物も売られていたことから「土物店」といわれましたが、正式名称は「駒込青物市場」といい、昭和12年(1937年)に豊島区の巣鴨に豊島青果市場として移転するまで続いていました。(所在 文京区本駒込1-6-16)
 
        
圓乗寺(円乗寺)
 
正式名称は、南縁山正徳院円乗寺といい、天正9年(1581年)の創建で、境内には寛政年間にお七役で名を馳せた四代目岩井半四郎によって建立された八百屋お七の墓があります。
八百屋お七の生家は駒込片町で有数の八百屋で、天和2年(1682年)近くの大円寺出火でお七の家が焼け菩提寺の円乗寺に避難し、避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になり、店が建て替えられ家は寺を引き払ったが、お七の庄之助への思いは募るばかりとなり、家が火事になれば恋しい庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火。火事は小火で済んだものの火付けの罪に問われ鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処さられています。
お七の恋人の名は井原西鶴の好色五人女の「吉三郎」とするものが多いようですが、「吉三」、「山田左兵衛」とあるようです。
右端のお墓には墓石が3基ありますが、右側は寛政年間に四代目岩井半四郎によって建立され、中央は寺の住職が供養のため建立、左側は近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものです。
(所在 文京区白山1-34-6)
 
   
 
         
一葉ゆかりの桜木の宿と一葉塚
 
24歳でこの世を去るまで12回もの転居を繰り返した樋口一葉が4歳から8歳までの5年間住んでいたのが、東大赤門前にある法真寺の隣でした。一葉はここを「桜木の宿」と名付け、後年「ゆく雲」の中でその情景が書き残されています。
法真寺では一葉の命日にあたる11月23日に「一葉忌」を開いており、境内には「一葉塚」が設けられています。
(所在 文京区本郷5-27-11)
        
 
     
一葉ゆかりの質屋
 
12回もの転居を繰り返した樋口一葉は本郷界隈で約10年間暮らしましたが、晩年は生活が貧窮し、明治29年に24歳で亡くなる間際まで伊勢屋質店に通ったことが日記に記されていますが、その質屋が菊坂沿いの道にありました。質屋は昭和57年に廃業しましたが、建物と倉は残されており、文京区では今後定期的に内部公開を計画しているようです。(所在 文京区本郷文京区本郷5-9-4 )
右の写真は伊勢屋質店から数分離れた細い路地を入ったところにある井戸で、この前の家に一葉が18歳から21歳までの約3年間、母娘3人で暮らしていたところです。(路地入口に目印の看板があったようですが、出かけたときは見つからずちょっと迷いました。)(所在 文京区本郷4-32)
     
 
     
     
     
     東京歴史さんぽ その8を見る     トップページに戻る