東京歴史さんぽ その26 |
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三鷹電車庫跨線橋 中央線三鷹駅の武蔵境寄りに設けられている三鷹車両センターに架かる長さ90mの跨線橋ですが、造られたのは昭和4年(1929年)のことで、昭和14年(1939年)に三鷹に居を構えた太宰治が、友人を案内して訪れていたと案内板にあります。 (所在地:三鷹市上連雀2-20-28) |
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太宰治文学サロン 三鷹に住んでいた太宰治の一家が利用していた伊勢元酒店があったところで、婦人公論の昭和17年(1942年)2月号で発表された短編小説「十二月八日」にも登場する酒店でした。酒店の跡は文学サロンとして平成20年(2008年)に開設されており、直筆原稿の複製など太宰治に関係する貴重な資料が展示されています。 (所在地:三鷹市下連雀3-16-14) |
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太宰碑 「風の散歩道」の中ほどには、『乞食学生』(1940年初出)の一節が記された碑が置かれています。 (所在地:三鷹市下連雀3-6-52) |
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山本有三記念館 「風の散歩道」の井の頭公園寄りにあるこの記念館は、昭和11年(1936年)から昭和21年(1946年)まで作家の山本有三が住んでいた大正時代の末期に建てられた洋館で、戦後は進駐軍に接収され、昭和31年(1956年)に接収が解除されたのちもここに戻ることはできなかったようです。建物は、現在山本有三の生涯と作品を紹介する施設の山本有三記念館として一般に公開されています。 ここで山本有三は『路傍の石』や「米百俵」などを執筆しているようですが、門の前に置かれている大きな石は、『路傍の石』執筆当時に、中野にあった中野旧陸軍電信隊(現在の中野四季の森公園付近)のそばで見つけて、庭まで運び込んだと伝えられ、『路傍の石』と名付けられています。 (所在地:三鷹市下連雀2-12-27) |
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駅前に戻り中央通りを太宰治のお墓がある禅林寺に向かって中央通りを歩きます。歩道には三木露風、武者小路実篤、太宰治と亀井勝一郎、山本有三の文学碑が置かれています。 |
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森林太郎遺言碑 境内の大イチョウのそばにあるこの遺言碑は、森鴎外が死に際して親族と親友の賀古鶴所が付き添う中遺言として残したものであり、碑には下記の文章が刻まれています。 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ コゝニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス 死ハ一余ハ石見人森林太郎トシテ切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官権(憲)威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サズ 大正十一年七月六日 森林太郎 言 賀古鶴所 書 |
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少し遠いけれどバスに乗って近藤勇の墓がある龍源寺に行くことにします。 |
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龍源寺前のバス停で降りると、信号を渡ったところが龍源寺です。 正式には大澤山龍源寺という曹洞宗系の単立寺院で、戦国武将で三鷹の大沢村近辺を開いた箕輪将監の開基で、承応元年(1652年)の創建と伝えられています。 (所在地:三鷹市大沢6-3-11) |
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近藤勇の生家跡 龍源寺から人見街道を西に約300m歩いたところに、新撰組の局長として知られる近藤勇の生家があります。近藤勇は天保5年(1834年)に、龍源寺の檀家であった宮川家の三男勝五郎として生まれ、15歳の時に天然理心流三代目宗家の近藤周助の養子となり、近藤姓を名乗っています。生家は当時敷地が約7000㎡ある富農でしたが、現在は産湯を使った井戸(下左の写真)と昭和の初期に建立された近藤神社(下右の写真)が残されています。 (所在地:調布市野水1-6-25) |
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おまけ 撥雲館の南側には武蔵野の森公園があり、そこには掩体壕が残されているので、行ってみることに。 武蔵野の森公園は調布飛行場と隣接していて、太平洋戦争中は日本陸軍の戦闘機隊の基地となっていました。戦争末期には米軍の空襲も多くなっていたため、配備された戦闘機を空襲から守るため掩体壕に格納していました。 戦後70年を過ぎて全国各地にあった掩体壕は姿を消しており、調布飛行場に作られた30基の掩体壕のうち残されているのは2基だけとなっています。 掩体壕という言葉を知らない人のほうがおおかもしれませんが、昔、といっても60年位前ですが、旧立川基地の近辺でもよく見かけましたが、どうやら今は1機も残っていないようです。 |
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大沢1号掩体壕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」の模型 飛燕は、1943年(昭和18年)に採用された川崎航空機製の戦闘機で、正式には「キ-61 三式戦闘機」といい、円寺出力は1100馬力、最高速度590km/hの性能を持ち陸軍の主力戦闘機でした。 |
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