東京歴史さんぽ その22

東京歴史さんぽその10で南千住界隈を歩きましたが、千住大橋を越えずとなっていました。今回は大橋を渡ったところにある千住宿界隈の街歩きです。
千住宿は、品川宿、内藤新宿、板橋宿とともに「江戸四宿」のうちの一つで、日光街道と奥州街道(奥州道)にあって、日本橋から一番目の宿場町です。
 
      
   
  千住大橋の南千住側の袂には「千住大橋記念碑」があります。
(所在地:荒川区南千住6-70)
 
 
   
  千住大橋を渡ると足立区となります。
大橋の下には、隅田川で分断されていた橋下のテラスが、平成16年(2004年)に歩行者専用の千住小橋が設けられ通行できるようになっています。

(所在地:足立区橋戸町)
 
     
   
  御上り場跡
江戸時代にこの場所には、将軍家や日光門主(輪王寺宮あるいは上野の森宮ともよばれていました)などの高貴な人たちの利用する船が着く湊があり、ここを「千住大橋際御上がり場」と呼ばれていました。
説明板の横には、12代将軍徳川家慶の御成り舟が着く様子の絵(左側)や、仙台藩13代藩主伊達慶邦の大名行列の様子を描いた絵(右側)があります。

(所在地:足立区橋戸町)
 
     
   
  千住小橋を渡った上流側は、千住大橋テラスとなっており、松尾芭蕉の奥の細道旅立ちの様子を与謝野蕪村が描いた「奥の細道図屏風」の絵のペイントがあり、その横には「おくの細道」の旅立ちの初めの文章が記されています。  
     
   
  橋テラスには葛飾北斎が描いた富士を見上げる千住葱を運ぶ人の姿の絵や、初代安藤広重の千住大橋の様子を描いた絵がペイントされています。  
     
  橋テラスから階段を上ると千住大橋公園があります。
(所在地:足立区橋戸町)
 
     
  の地は、元禄2年(1689年)3月27日に俳人松尾芭蕉が門人の河合曽良を伴って奥州、北陸道へ旅立ったところで「矢立初めの地」として知られており、石碑の横には千住大橋や芭蕉と空の姿を描いたレリーフ像説明文がありますが、設置されてから相当の年数を経ているため絵も文字もかすれてよく読み取ることができません。
 
 
   
  千住浮世絵顕彰碑
公園内にあるこの顕彰碑は、葛飾北斎が富士山を題材にして描いた「富嶽三十六景」で、千住から眺めた富士山を3枚描いていることから、千住の文化を次代に伝えようと、NPО法人が平成30年(2018年)3月に、絵の題材となったであろうと推測される地点3か所に建立したものです。ここ大橋公園にあるのは『従千住花街眺望ノ不二』の絵が取り入れられています。
 
 
   
  おくのほそ道矢立初の碑
公園の一角にあるこの碑は、芭蕉の矢立初めの地に因んで昭和49年(1974年)に設けられたもので、おくの細道の旅立ちの一部である「千じゆと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに別離の泪をそゝく」の文章と「行春や鳥啼魚の目は泪」の句、そして「是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし」の文章が刻まれています。
碑の横には「裏面もお読みください」と記された看板もありますが、矢来があって裏側に回ることができません。
 
     
   
  干潮金刀比羅宮
東京都中央卸売市場足立市場の敷地内にあるこの金比羅宮は、延徳年間(1489~91)より浮島金比羅宮として崇敬されていて、昭和20年(1945年)に足立市場が開設された後は、足立市場の守護神となっています。
(所在地:足立区橋戸町53)

 
 
   
  千住宿奥の細道プチテラス
千住大橋を渡ってすぐに国道4号線が旧日光街道と分かれます。この辺りは千住橋戸町で、現在は足立市場となっていますが、当時はやっちゃ場と呼ばれ、幕府指定の御用市場となっていた青物市場があったところです。
テラスには、芭蕉生誕360年を記念して平成16年(2004年)に建てられた、矢立を持った芭蕉像があり、その横には日光道の道標があます。
(所在地:足立区橋戸町50)
 
 
 
 



やっちゃ場南詰

この辺りは「やっちゃ場通り」と呼ばれていて、戦国時代より青空市場が開かれていたと伝えられていますが、この市場でのセリの時の声が「やっちゃ、やっちゃ」とくることから「やっちゃ場」と呼ばれるようになったと伝えらています。
       
 



元長床茶屋

江戸時代に歴代将軍が、鷹狩りの際や、小菅御殿の行き帰りに休息をとった茶屋があったところです。
 
     
   
  千住宿歴史プチテラス
奥に見える白い建物は、当時、元地漉紙問屋(もとじすきかみどんや)であった横山家の土蔵で、天保元年(1830年)に建てられており、足立区に寄付されて、「千住宿プチテラス維持会」が運営して千住宿の歴史を見ることができますが、訪れたこの日は火曜日とあって休業中となっていました。
(所在地:足立区千住河原町21-11)
 
 
 
 
千住宿歴史プチテラスの門前には芭蕉の句碑があり、「鮎の子のしら魚送る別れ哉」の句が刻まれています。
 
  日光道の道標

 
 



千葉サナ灸治院跡

千葉サナは、正式には千葉さな子といい、幕末の天保9年(1838年)に北辰一刀流の桶町千葉道場の千葉定吉の次女として生まれた人で、北辰一刀流の小太刀の免許皆伝者であり、「千葉の鬼小町」とも「小千葉小町」と呼ばれていました。
江戸遊学中の坂本龍馬と知り合って婚約しましたが、龍馬が土佐に帰国後は疎遠となっており、龍馬の死後は父定吉が仕立てた坂本家の紋付の片袖を形見としていました。
明治維新後は、学習院女子部に舎監を務めた後に、この地で家伝の灸治院を生業として明治29年(1874年)に59歳で亡くなっています。

(所在地:足立区千住仲町4)
 
   
  千住掃部宿跡の説明板
掃部宿は現在の千住仲町、河原町、橋戸町のあたりにあったもので、万治元年(1658年)に設定されており、その名の由来は、掃部堤を築造した石出掃部佑吉胤に因んでいます。
(所在地:足立区仲町4)
 
 
 
 
一里塚跡の碑(左)と高札場跡の碑(右)
いずれも旧区役所通りと日光道が交わる交差点のところにあり、かつては江川堀が流れていて、堀に架かる千住小橋があったところです。
千住の一里塚は、日本橋から二里目にあたるところで、北区西ヶ原にある一里塚(東京歴史さんぽ その4参照)のように立派なものではありません。
(所在地:足立区千住仲町18・19)

 
 
   
  問屋場(といやば)・貫目改所(かんめあらためしょ)跡の説明板
かつて幕府は各宿場に対して、宿場に入る旅人に人足と馬を提供することを義務付けていましたが、問屋場はその人足と馬を手配するところでした。また、貫目改所は、馬で運ぶ荷物の制限に基づいて、秤によって検査するところでした。
(所在地:足立区千住1-24-3)

 
 
   
  橘井堂医院跡の説明板
森鴎外の父であった森静男が、開いた橘井堂医院があったところで、森鴎外はこの地で暮らしていました。あいにくとこの場所はマンション建設が始まっており、旧居跡を示す「千住の鴎外碑」は別のところ保管されていて写真だけとなっています。
(所在地:足立区千住1-24-3)
 
 
   
  千住本陣跡
宿場が設けられたときは、千住の本陣は2軒あったようですが、そのうちの嘉左衛門は廃業し、市郎兵衛だけが幕末まで営業を続け1万石以上の大名・公卿・高僧等が宿泊していました。
(所在地:足立区千住3-33)
 
 
      
 
  日光道は奥州街道とも重複しているため、参勤交代で千住宿を通った大名家は60余家にも上っていたとのことで、通り沿いにはその大名家の名と家紋が上げられています。
写真はその一部で、左から陸奥仙台藩伊達家62万石、出羽久保田藩佐竹家20万石、陸奥相馬中村藩6万石です。
 
 
   
  千住本氷川神社
旧称を「牛田氷川神社」といって素戔嗚尊を祭神とし、千住七福神の大黒天を奉祀しているこの神社は、「神社名鑑』によると、徳治2年(1307年)に千葉氏によって、牛田(千住曙町)に千葉西行院とともに創建されたとなっており、江戸時代の初めに水害を避けるため現在地に分社されています。現在の社殿は昭和45年(1970年)に新築されたものです。
(所在地:足立区千住3-22)

 
 
 

旧社殿
 
三精稲荷神社
      
 
ラジオ体操発祥の地碑
昭和27年(1952年)に当時の千寿第一小学校で夏季休暇中に行うラジオ体操の場として境内を提供したのが始まりで、以来年中無休でラジオ体操が行われています。
 
  芭蕉句碑
松尾芭蕉が奥の細道の旅立ちをしてから300年を記念して建てられたもので、碑には『はるもやゝ けしき とゝのふ月と梅』と刻まれています。
 
 
 
千住宿場町通りの風景(左)と歩道に設置されているタイル画(右) 
 
 
 
千住本町公園
それほど広い公園ではありませんが、千住宿の高札場の由来を記した看板が入り口に設置されており、たこの遊具が置かれていることから、別名「たこ公園」.と呼ばれていいます。
(所在地:足立区千住4-22-16)
 
 
   
  千住絵馬屋吉田家
宿場町通りに面して建てられているこの家は、江戸時代の中期から代々絵馬や地口行灯、凧などを描いてきた際物問屋で、現在も八代目が手書きで絵馬を描いています。(「際物(きわもの)」とは、ある時期の間際だけ売れる商品のことをいいます。)
(所在地:足立区千住4-15-8)
 
 
   
  横山家住宅
千住絵馬屋吉田家の反対側にあるこの家は、江戸時代の後期の安政2年(1855年)に建てられ、「松屋」という称号の地漉紙問屋であった横山家の住宅です。建物は間口9間、奥行15間あり、昭和11年(1936年)に一部改修されていますが、現在でも当時の面影を残しています。
庇の柱には、幕末の上野の戦いで、官軍に敗れて撤退する彰義隊が切りつけた刀傷の跡が残っています。(所在地:足立区千住4-28-1)

 
 
 
  安養院
鎌倉時代に北条時頼が創建したと伝えられており、創建時は西林山長福寺と号していました。
寺は慶長3年(1598年)兵火によって焼失し、現在地に移転しており、現在の西林山長福寺安養院と名を変えています。
(所在地:足立区千住5-17-9)

 
 
 
観音堂
 
     
 
 
大正12年(1923年)に再建された、宝形造りの本堂
 
 
 
  芭蕉句碑
刻まれた文字が薄くなっていてよく判別できませんが、「ゆく春や鳥なき魚の目は泪」と刻まれています。
 
 
   
  名倉医院
江戸時代の中期より「骨接ぎ所」として続く名倉医院は、骨接ぎといえば名倉、名倉という場骨接ぎとして知られる医療機関で、下妻街道沿いにあって、日光道や佐倉道の分岐点にも近かった事から、骨折した多くの患者が訪れていたとのことです。
(所在地:足立区千住5-17-9)
 
 
   
  長円寺
正式には月松山照光院長円寺といい、出羽湯殿山の行者雲海が、寛永4年(1627年)にこの地に庵を結び、のちに僧賢俊によって開山された真言宗のお寺です。寺の入り口となる山門は明治2年(1869年)に建立されたものです。
(足立区千住4-27-5)

 
 
 
 



めやみ地蔵

山門の横にあるこの地蔵堂、正式には「子育て地蔵堂」といわれていますが、古くから目を病んだ人たちがお参りしており、「目やみ地蔵」の名で地元の人たちに呼ばれています。
 
      
 
 



千住氷川神社

宿場通りのそばにある氷川神社は、元禄4年(1691年)に長圓寺境内に創建された神社で、明治時代の初期にこの地に移転。
5年に一度、9月に開催される大祭では、神輿の他に都内では珍しい山車も出るとのことです。

(所在地:足立区足立区千住4-31-2)
      
 



三管塚

三管とは、雅楽で用いられる笙、竜笛、ひちりき(篳篥)の管楽器のことをいい、古くなった楽器を納めていた塚があります。
 
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