東京歴史さんぽ その21  
  
 
   


新宿中央公園

新宿駅の西口から歩いて約10分、高層ビルの谷間を抜けると正面に見えてくるのが新宿西口公園です。この公園があったところは、もともは現在西隣にある熊野神社の敷地であり、終戦前には小西六写真工業(現 コニカミノルタ)の工場敷地となっていて、隣接して東京都の淀橋浄水場があったところです。
小西六は、新宿副都心の計画の一環で昭和38(1963)年に移転し、淀橋浄水場は昭和40(1965)年に東村山浄水場の完成に伴い廃止となって、昭和43(1968)年に都の公園として整備され、昭和50(1975)年に新宿区に管理が移管されたものです。
公園の広さは8万8065㎡あって新宿区立の公園では最大もので、芝生広場、ちびっこ広場や多目的運動場も併設されていて、近隣のビルに勤めるサラリーマンたちの憩いの場ともなっています。

私が初めて自分でカメラ(ニコンF2)を買って、今は亡き会社の友人たちと写真を撮りに来たのが、公園として整備される前の淀橋でした。その頃は半分壊された淀橋浄水場の煉瓦塀が残っていて、バシバシとシャッターを切っていたのを思い出す場所です。

右の写真は「水の広場」にある新宿ナイアガラの滝です。

(所在地:新宿区西新宿2-11)
   
     
 

旧淀橋浄水場六角堂
六角堂は、公園内でいちばん標高の高い富士見台と呼ばれる築山の上にある洋風の四阿で、明治末期から昭和の初期に建てられたもので、浄水場見学で訪れた人たちがここで説明を受けたり休息するのに用いていたとのことです。
六角堂の周りに敷き詰められているのは、明治時代に設けられた浄水場の壁に用いられた煉瓦です。
 
     
 

写真工業発祥の地

明治35年に小西本店(現 コニカミノルタ)が写真フィルムの国産化を図るため、工場と研究所(六桜社)を建設し、明治36(1903)年に国産初の印画紙を発売したところです。
 
水の広場はイベント会場にもなっており、この日はフリーマーケットが開催されていました。
 
     
 
久遠の像

公園内にある区民ギャラリーの傍にあるこの像は、「山吹の里伝説」に出てくる江戸城を築いた太田道灌が鷹狩りをした際の、少女とのやり取りが表現されており、少女が差し出す扇子の上には山吹の花と思しき花が載せられています。


山吹の里伝説とは、
鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまった太田道灌が、みすぼらしい家にかけんで、「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女(名は紅皿)が出てきたのです。少女が差し出したのは蓑ではなく、一輪の山吹の花であったといいます。
道灌はその意味が解らずに怒って帰ってしまいましたが、後日家臣から『七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき』という歌が、後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたもがありますと云われて、己の不明を恥じたと伝えられています。。
 
 
     


熊野神社

新宿十二社、十二社熊野神社、角筈十二社とも呼ばれ、新宿中央公園の西北の角に隣接しているこの神社は、創建が応永年間(1394~1428年)と伝えられており、新宿総鎮守として人々の信仰を得ている神社です。
神社の境内には「大滝」と呼ばれた滝と「十二社(じゅうにそう)池」があって、江戸時代には景勝地として知られていて、茶屋や料亭が建ち並び花街となって、その賑わいは昭和の前半まで続いていて、現在の「十二社」の地名はその名残です。

(所在地:新宿区西新宿2-11-2)
   
     

我楽殿
 
 

十二社の碑

嘉永4(1851)年に建てられた碑で、ここ十二社が江戸西郊の景勝地であることが、『江戸繁盛記』を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により記されています。
 
     


成子子育地蔵尊

享保12(1727)年に成子坂に建立された地蔵尊ですが、天保年間に一度再建され近隣住民の崇敬の対象となっていましたが、戦災で壊滅して昭和26(1951)年に再建され、西新宿地区の超高層ビル開発に伴い、平成14(2002)年に不燃化構造で建て替えられています。
ビルの陰にあるのでチョイと見つけにくいです。

(所在地:新宿区西新宿6-7-43)
   
     


成子天神社

延喜3(903)年に、菅原道真が亡くなったのを嘆き悲しんだ家臣が道真の像を太宰府より持ち帰り祀ったのが始まりとされている成子天神社、その後鎌倉時代になって、源頼朝により社殿が造営されました。
三代将軍家光の時代に春日局頼柏木鳴子の地を賜り天満天神社として社殿が造営されましたが、寛文年間に起きた火災により、社殿の記録等一切が焼失しており、明治時代には成子神社、昭和3(1928)年に現在の成子天神社と改称しています。社殿は戦災で焼失し、昭和41(1966)年に再建され、現在の姿になったのは平成26(2014)年です。
境内には大黒天をはじめとして七福神の像があり、ここ一社で七福神めぐりができる「めぐり天神」となっています。

(所在地:新宿区西新宿8-14-10)
   
     
 

富士塚

大正9(1920)年に富士山の溶岩を運んで設けられたもので、新宿区内に現存する富士塚では最大のものとか。頂上まで上れますが、道が細くちょっと危ないです。近年パワースポットとして人気があります。
 
     


常泉院

青梅街道沿いにある常泉院、正式には福聚山常泉院といい、寛文年間に日得上人によって創建されたと伝えられる日蓮宗のお寺で、境内には「浄行菩薩」(写真中央)と木造の「鬼子母神像」(写真左)があり、新宿の鬼子母神として江戸三大鬼子母神に匹敵する信仰を集めています。

(所在地:新宿区西新宿7-12-5)
   
        


便々館湖鯉鮒の狂歌碑

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)は、本名を大久保正武という江戸時代中期の幕臣でしたが、朱楽菅江(あけらかんこう)に狂歌を学んだのちに、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の門下となり、以後、便々館湖鯉鮒は琵琶連ををひきいて創作を行っていました。
歌碑は、常園寺の参道にあり、『三度たく 米さへこはし 柔かし おもふままには ならぬ世の中』と刻まれていて、狂歌中興の祖である太田南浦の揮毫により文政2年に建立されたものですが、長い年月のせいか殆ど字がかすれて判読が難しくなってくています。

狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌で、刻まれた歌の意味は「一日に三度炊く飯さえ、固さ、柔らかさを思うように炊くことは難しい。まして、世の中は自分の思うようにはならない」となり、「米とまま」をひっかけています。


(所在地:新宿区西新宿7-12-5)
   
        

思い出横丁

新宿西口の大ガードそばにある商店街で、正式には「新宿西口商店街」といいますが、通りには「思い出横丁」の看板が掲げられており、別名には「やきとり横丁」、そして「ションベン横丁」という呼び名もある商店街です。
商店街は戦後まもなくできた闇市がそのルーツで、最盛期には300㎡位のところに300店もの店が軒を並べていましたが、現在では80店舗前後が営業を続けており、観光客も多く訪れるようになっています。

(所在地:新宿区西新宿1丁目)
   
 
     
花園神社
 
新宿駅からほど近いところにある花園神社、徳川家康が江戸に入る以前に創建されていたという歴史があり、江戸に内藤新宿が開かれてからは「新宿の総鎮守」として祀られるようになっているとのことで、創建当時は現在の地より250mほど南側に位置していましたが、寛政年間に現在の地に遷座したものです。
当時この近辺には多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから、「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられており、真言宗豊山派の愛染院の住職が別当を務めたことから「三光院稲荷」とも、地名から「四谷追分稲荷」とも呼ばれていました。
神社は明治時代に単に「稲荷神社」という名になりましたが、これは届出の際に「花園」の名を書き忘れたとか言われており、大正5(1916)年には「花園稲荷神社」と改称し、現在の神社名となったのは昭和40(1965)年のことです。

下の写真は靖国通り側の鳥居と参道、そして参道に入ってすぐのところにある銅製の唐獅子像です。この唐獅子は、文政4(1821)年に江戸時代の鋳物師として名高い村田整珉によって作られたもので、新宿区の有形文化財となっています。

(所在地:新宿区新宿5-17-3)

 
   
          
   

明治通り側の大鳥居

花園神社の本来の参道はこちら側となり、参道の奥には拝殿が望めます。 
 
     
   
拝殿は昭和40(1965)年に建て替えられたもので、コンクリート製です。  
   
 

芸能浅間神社

境内摂社のひとつで、境内の北側にあり、神社は富士塚の上に位置しています。
神社の名に「芸能」がついているのは非常に珍しいとのことで、多くの芸能人からの奉納が多く、藤圭子が歌った「夢は夜開く」の碑もあります。
 
   
   

納め大明神
写真の両側にある立て札の通り、古いお札や熊手を納めるところです。
   

威徳稲荷神社

赤い鳥居が立ち並んだ奥にある神社で、昭和3(1928)年頃に創建されたとのことですが、由緒や資料は、戦災で焼失したため不明となっています。
 
     
   
毎年11月に行われる「酉の市」では写真のように、鳥居も拝殿の周りも奉納される提灯で埋め尽くされます。  
     


新宿ゴールデン街
花園神社の西側にある飲食店街ですが、第二次世界大戦後の混乱期にできた闇市が発端で、現在は小さな飲食店が200件ほど建ち並んでおり、作家、映画人などが多く集まるところとして知られています。
(ゴールデン街の中は全て私道で撮影は禁止となっており、右の写真のように公道側からしか撮影ができません。)


(所在地:新宿区歌舞伎町1丁目)
 
 
 
     


島崎藤村旧居跡の碑

小説家島崎藤村が、それまで勤めていた小諸義塾の英語教師を辞め、明治38(1905)年5月より翌年9月まで住んでいたところで、ここで藤村は長編小説「破壊」を自費出版し、小説家としての地位を不動のものとしました。一方で、三女、次女、長女を相次いで亡くす不幸をおくった場所でもあります。

(所在地:新宿区歌舞伎町2-4)
 
        


小泉八雲終焉の地

市谷富久町に住んでいた小泉八雲は、周辺の環境変化を嫌って明治35(1902)年3月にこの地に移り住み執筆活動を続け、早稲田大学で教鞭もとっていましたが、明治37(1904)年9月26日に狭心症のため急逝しました。時に54歳でした。
新宿区立大久保小学校の正門脇にある石碑には、「小泉八雲舊居跡」と刻まれており、左側には八雲生誕百年を記念して、東京八雲同人会が建立した記念碑があります。


(所在地:新宿区大久保1-1-17)
   
        


小泉八雲記念公園

小泉八雲終焉の地からほど近いところに設けられた公園で、出身地であるギリシャをイメージして造られており、古代神殿の石柱を模した柱などがあり、奥には胸像があります。

(所在地:新宿区大久保1-7)
   
 
     


坪内逍遥旧居跡

坪内逍遥が、明治22(1889)年から大正9(1920)年まで約30年間住んでいたところで、早稲田大学で教鞭をとる傍ら、雑誌『早稲田文学』の発行やシェークスピアの作品の翻訳などを行っていました。
また、敷地内には明治42(1909)年に文芸協会演劇研究所を設け、基礎理論、演技指導を行い、後の日本の演劇会を担う多くの人たちを育てたところでもあります。

(所在地:新宿区余丁町8-5)
   

永井荷風旧居跡

小説家永井荷風が、父の意向で実業家となるべくアメリカ、フランスなどを回って帰国した明治41(1908)年から大正7(1918)年まで住んでいたところで、「断腸亭」と名付けた書斎で執筆活動を行い、『歓楽』、『冷笑』、『隅田川』そして『断腸亭日乗』などを発表した場所です。

(所在地:新宿区余丁町14-3)
 
 
        


戸山公園

江戸時代には尾張徳川藩の下屋敷であったこの場所は、二代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山荘」または「戸山山荘」として整備され、箱根山に見立てた築山や小田原宿を模した建物がしつらえられ、江戸府内で有数の大名庭園となっていました。
明治時代になって明治政府に明け渡されてからは、陸軍の戸山学校が開設され、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、練兵場として利用され、戦後の昭和29(1954)年にその敷地の一部を整備して「戸山公園」としたものです。
園内にある築山は「箱根山」と名付けられており、標高は44.6mあり、山手線内で一番高い山となっています。

(所在地:新宿区大久保3-5-1)
   
 
   

                          箱根山の碑
 
                   陸軍外山学校軍楽隊野外演奏場跡
 
     


穴八幡宮

康平5(1062)年に八幡太郎の通称で知られる源義家が、奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという社伝がある神社で、旧称を高田八幡宮といいます。
寛永18(1636)年に宮守の庵をつくるため、社僧の良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、「芽出度い」と大喜びし、以来「穴八幡宮」と称するようになったといわれており、三代将軍徳川家光が、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としました。
以後歴代の将軍が度々参拝に訪れ、享保13(1728)年には八代将軍吉宗により世嗣長福丸(後の九代将軍家重)の病気平癒を祈願して流鏑馬が奉納され、その後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納されました。流鏑馬は、現在でも毎年10月の体育の日に、戸山公園で高田馬場流鏑馬が行われています。
また、八幡宮は、蟲封じのご利益があるとして庶民の信仰を集め、その祈祷は有名であったとされています。
境内の建物は戦災でほとんど焼失しましたが、本殿、拝殿、随神門などが再建され、現在も残っている古書を基に再建が行われています。

(所在地:新宿区西早稲田2-1-11)
 
一の鳥居と参道
 
一の鳥居脇にある流鏑馬像
 
   

                            随神門

                            本拝殿
 
 


放生寺

放生寺は、穴八幡宮の別当寺として寛永18(1641)年に同神社の西隣に創建されたお寺で、正式には光松山放生寺といいます。
寺は、寺号が示す通り「放生会」で知られており、蟲封じにご利益があるとして、毎年体育の日に開かれる放生会には多くの参拝者が訪れるとのことです。
拝殿の横には放生池がありますが、もともとは穴八幡宮にあった池が、神仏分離で寺の管轄となるためその池を埋め立ててこちらに新設したものです。
なお、毎年冬至の日に行われる冬至祭では、「一陽来復」のお守り札の授与では、穴八幡宮が「一陽来復」であるのに対し、ここ放生寺では「一陽来福」の札となっていて、これは「福聚海無量」に因んでいるとのこと。

(所在地:新宿区西早稲田2-1-14)
   
 
     
   
      
      
       
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