ニュルンベルク |
ニュルンベルク中央駅 |
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ペグニッツ側の両岸に広がるバイエルン州の人口50万人を超える大都市ニュルンベルク、我々はこの名を聞くとナチスドイツの裁判を行った『ニュルンベルク裁判』を思い出します。 街の名前は1050年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の時代に現れており、12世紀にはコンラート3世が皇帝の居城に改築し、後にホーエンツォレルン家の居城となりました。 その後1427年にはフリードリヒ6世が、城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、以後19世紀のはじめにバイエルンに統合されるまで市参事会が街を管理していました。 旧市街は中世の時代のニュルンベルク城(カイザーブルク城)の城壁に囲まれており、古い街並みが残っていましたが、ナチス政権時代には最初の党大会を開催した都市であり、ナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であったことから、1945年の1月には連合軍の爆撃によって旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を受けることになり、またその後の地上戦でもさらにいくつかの歴史的建造物が破壊されました。 大戦後は町を放棄するという話もあったようですが、現在では城壁に囲まれた旧市街は中世の面影を残す美しい町並が復元されています。 |
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ニュルンベルク城 城が何時頃築かれたのは定かでないようですが、旧市街を取り囲む城壁の中でも北側の小高いところに位置して建てられており、いくつもの塔が今でも残されています。 |
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城内から見るニュルンベルク旧市街 |
中庭には菩提樹の大木があります。 |
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旧市庁舎 | 市庁舎の入口上には神聖ローマ帝国の鷲の紋章と正義(左)と知恵(右)の像があります | |||||||||
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フライシュ橋(Fleischbrücke) 橋のたもとに牛の像があるこの橋、ペグニッツ川に架かる橋で、16世紀の半ばにヴェネツィアのリアルト橋を手本にして架けられたといい、直訳すると「肉屋の橋」となりますが、橋のたもとに肉屋があったことからこの名がついたようです。 |
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ハイリヒ・ガイスト・シュピタール 旧市街を二分するように東西に流れているペグニッツ川の中州に建てられているこの建物は、旧聖霊施療院(Heilig-Geist-Spital)といい、1332年から1339年にかけて市内のコンラート・グロースという個人が設立した社会福祉施設で、200人もの人を収容できる施設でした。現在の建物は第2次世界大戦の爆撃の被害を受け1950年代に再建されたもので、レストランとして利用されています。 |
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庭師の門と塔(tiergartnertor 直訳すると「動物の庭師の門」でしょうか?) デュラーの家のそばにあるこの門と塔はニュルンベルク城の市壁に造られた門のうちのひとつで、16世紀半ばに造られたものです。 |
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アンスバッハ ニュルンベクの観光を終えてローテンブルクに行く途中にあるアンスバッハに立ち寄ります。当初の予定にはない町ですが、わずか20分足らずの滞在です。 ここアンスバッハは、1221年に町の名が文献に現れ、15世紀にはアンスバッハ侯領の支配下となり、19世紀のはじめまで統治されていました。 |
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シュロス広場の門 |
アンスバッハ辺境伯のレジデンツ |
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わずか20分足らずの滞在でしたので10数枚写真を撮るだけでしたが、レジデンツの内部や宮廷庭園など見どころはいろいろあるようです。 | ||||||||||
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