根城と八戸チョコット街歩き | ||||||||||
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旧八戸城東門 江戸時代に八戸城の東門として建てられていましたが、安政8(1859)年の台風で倒壊し、八戸藩の家老に払い下げられたのを機にこの地に移築されたもので、もともとは根城の大手門であったとと伝えられており、根城史跡の広場の入り口となっています。 |
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東善寺館(とうぜんじだて)の濠跡 東門を抜けると根城の祈願所であった東善寺の手前に空濠があります。築城当時は深さ8mあったといわれるV字型の空濠ですが、現在は深さ4mほどしかありません。 |
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薬草園 東善寺館のそばにある薬草園では、病気や怪我の治療用として自生する薬草を栽培していたようです。 |
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岡前館(おかまえだて)と呼ばれた曲輪と中館(なかだて)の間の濠はV字型の空濠となっていて、現在の深さは4mほどですが少し掘ると水が湧いて出るとのことで、築城当時は水濠であったと考えられているようです。 |
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中館 根城の重臣であった中館氏の館であったといわれているところで、右奥の四阿は発掘調査で建物があったことが判明し復元されたもので、馬屋であったと見られています。 |
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根城の本丸への入口は、東門、西門及び北門の三ヶ所があります。写真は左から東門、西門、北門です。本丸の周囲の塀は当時はもっと高かったのではないでしょうか。 | ||||||||||
主殿 復元された主殿は、城の公式行事や重要な接客への饗応に用いられていたとのことで、青森産のヒバを主体に柿渋を縫り、屋根はサワラ材を用いて栃葺きで仕上げられており、全体の広さは544㎡あります。 |
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主殿の内部 | ||||||||||
馬屋 馬屋には上馬屋(右の写真)、中馬屋(下左)、下馬屋(下右)があり、上馬屋は当主が用いていた馬を繋いでいたところで、中馬屋は馬房と物置と使われていたようです。又、下馬屋は建物は復元されておりませんが、冬の間の馬房となっていて、馬具や飼葉などの飼料も蓄えられていました。 |
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物見跡 本丸の北側に設けられていたもので、7~8mの高さの櫓が建てられて馬淵川を航行する船や敵の監視を行っていました。 |
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西門のそばにある番所は、門を通行する者の監視場所となっていました。 | ||||||||||
竪穴式で建てられた工房は甲冑、鎧、兜そして弓などの武具の修理が行われていたところです。 | ||||||||||
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常御殿(左)と奥御殿(右)跡 常御殿は当主の寝所や居間そして従臣の詰め所があったとされ、奥御殿は当主の家族が居住していたところといわれていますので、近世の城と同じような利用がされていたようです。 |
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鍛冶工房 竪穴式で造られた工房の床面は地面より90cmほど低く設けられていて、鎧や刀の部品などが造られていたようです。 |
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板蔵 当主や家族が用いる什器や衣服が収蔵されていた場所で、湿気から守るためでしょうか厚めの板を用いて建てられています。 |
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納屋は貯蔵庫となっていて、コメ、味噌等が収蔵されていました。 |
南部師行公の騎馬像 |
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八戸城址にある三八城公園 |
三八城二の丸の跡に明治11(1878)年に創建された三八城神社 |
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おがみ神社 八戸市内で最古といわれる神社で、その歴史は平安時代後期までの遡ることができ、八戸藩時代には藩の総鎮守となり、大名家南部氏の祈願所となっていて、神社のある場所が八戸城二の丸内であったことから一般領民は参拝が許されない神社だったようです。 ここでは毎年7月31日から8月4日まで重要無形民族文化財に指定された八戸三社大祭が行われ、20数台の山車行事に大勢の観光客が詰めかけるとのことです。 |
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市内中心部の十三日町の歩道にはいろいろなモニュメントが置かれています。 | ||||||||||
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