長崎街歩き その6  
  
 
   




南山手居留地跡の碑他

グラバー通りがグラバー園に向かって曲がるところにある、ANA CROWNE PLAZA長崎の角に、鉄柵で囲まれて石碑が建てられています。
この付近一帯は、東山手居留地と同じ外国人居留地であったところで、東山手居留地が領事館が多かったのに比して住宅地が多かったところで、東山手居留地と同じく、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている地域です。



(所在地:長崎市南山手町1-1)
   



ボウリング日本発祥の地碑

文久元年(1861年)6月22日に、居留地の唐人屋敷波止場近くにおいて、居留地の外国人専用のボウリング場が開設されたのが、日本で初めてのボウリング場でした。

「ボウリング発祥の地」の碑は、東京、横浜、神戸などにもあるようですが、日本ボウリング場協会で制定した6月22日の「ボウリングの日」は、この長崎でのボウリング場オープンの日付となっています。

(所在地:長崎市松が枝町4-22)
 
 
 
「国際電信発祥の地」

アメリカの発明家サミュエル・モールスがモールス符号を考案し、有線電信機を発明したのが1837年(天保8年)、翌年には世界で初めて実験が行われました。このモールス符号を用いる電信機が日本に入ってきたのは幕末の1850年代といわれていますが、当時はまだ開国も行われていず、出島の商館に置かれていただけのようです。


(所在地:長崎市南山手町1-1)
   
 
   




祈りの丘絵本美術館

南山手居留地跡のグラバー通りに面したところにある煉瓦造り風の美術館は、絵本を中心とした美術館となっています。
夏場になると、右の写真のように壁一面がナツヅタで覆われます。

(所在地:長崎市南山手町2-10)
   
 
   




大浦天主堂

グラバー通りに面し、正式名には日本二十六聖殉教者堂という国宝に指定されているこの教会、フランス人の教会として、元治元年(1865年)に献堂式が行われたものです。
明治8年(1875年)から12年(1879年)にかけて大規模な増改築が行われ、創建時の木造教会は、日本で初めての煉瓦造り構造のゴシック風様式に建替えら、昭和20年8月の原爆投下の際は、。爆心地から比較的遠かったため大きな被害を受けることはありませんでしたが、昭和50年(1975年)には現在の姿に建て替えられています。
教会創建時は「フランス寺」と付近の住民たちから呼ばれ、物珍しさで訪れる人も少なくなかったようであり、元治2年2月12日(1867年3月17日)には、浦上の住民十数人が訪れて信徒、いわゆる隠れキリシタンであることを告白しており、カトリックではこの日を「信徒発見」の日として特別にミサを行っています。
訪れたときは、外壁は修復中、おまけに内部の撮影は禁止とあって、入り口からの撮影だけとなりました。右の写真はグラバー園内から撮影したものです。

(所在地:長崎市南山手町5-3)
   
 
   




南山手十六番館歴史資料館

グラバー園の出口の前にあるこの建物、万延元年(1860年)に、東山で16番地に、初代アメリカ領事館員の宿舎として建てられた、日本で最古の木造洋館で、その後南山手に移築され一時はホテルとして利用されていました。
調べてみると、平成28年(2016年)に経営不振で売却の看板が出ていたそうですが、建物はそのままとなっていますので、その後何かに利用されているのでしょうか。

(所在地:長崎市南山手町4-15)
 
   




南山手地区町並み保存センター

明治時代の中頃に英国人商人で、麒麟麦酒の前身となるジャパン・ブルワリー・カンパニーの筆頭株主ともなった、ウィルソン・ウォーカーが自宅として建てたもので、淡いピンクの外壁とベイウィンドーと呼ばれる屋根付きの出窓が特徴です。
現在は、南山手居留地の町並み保存をするための活動拠点となっています。

(所在地:長崎市南山手町4-33)
 
  
南山手地区町並み保存センターからドンドン坂を上って、鍋冠山の展望台に行くことにします。町の人たちも観光客もほとんど見かけません。
 
 
  長崎気象台下の道を歩いていると、「ロシア領事館跡」の説明板があります。
この付近一帯は、明治の初めにロシア領事館が置かれていたところで、残されている石垣も当時のもののようです。
右の坂は「コンスイ坂(別名ゆずりはの坂)」と呼ばれる坂で、ロシア語では領事のことを「コンスル」といいますが、これがなまって「コンスイ」となったようです。距離的には短い坂ですが、角にあった坂の交通標識の傾斜角度は20%となっていました。
石垣には「この土地はロシア政府所有地につき立入り禁止」の看板があります。
帝政ロシア崩壊後、この付近の土地は管理するものがおらず町の人たちが住み始めたようですが、当時のソ連邦が昭和62年(1987年)に土地の登記を行い、その後日本政府も、ロシア連邦の土地であることを認めたことから裁判沙汰になり、住んでいる人たちは、ロシアに対してお金を払って所有権を取得したといういきさつがあるようです。
戦後7十数年たっても北方領土を返さないのに、自分の権利だけはしっかり主張しているのですね。
   
 
   
 



ドンドン坂

雨が降ると、雨水が「ドンドン」と音を立てて流れることからつけられたというこの坂、坂の距離は120mと短いですが、高低差は23mあり、坂の傾斜角度は10度位となります。
道の両側には、居留地時代の洋館も何棟残っており、現在も現役の住居となっています。
道の両側には排水溝が設けられていて、その排水溝も、一度に水が流れないよう工夫されているようですが、それでも「ドンドン」と流れるようです。
坂の上からは長崎湾が見え、対岸には世界遺産に登録されている三菱造船の第三船渠(№3ドック)が見えます。

(所在地:長崎市南山手町4-33)
     
 
   
   
   
旧杠葉病院
コンスイ坂を上り切ったところにあり、明治時代の中頃にユダヤ人貿易商シグマンド・デービッド・レスナー氏の私邸として建てられたといわれており、その後、杠葉(ゆずりは)病院に譲渡されていましたが、現在病院は営業されておらず、病院経営者の私邸として利用されているようで、左は本館、右は別邸となっていました。
 
        
グラバー園の旧スチイル記念学校の裏にある道から鍋冠山に向かいます。
坂道では猫がのんびりとしています。
   
 
        
鍋冠山までは坂道と階段が続きます。
車ですと展望台傍まで行けるようですが、なにせ「街歩き」です。
途中には展望台まであと何mと、展望台の絵と距離が書かれたプレートがあります。逆に「まだそんなにあるの」と思いたくなるほど、この上りも年寄りにはきつい上り坂です。
   
 
        
鍋冠山展望台

上りはじめてから10分ちょっと、標高169mのところに設けられている展望台に到着です。
そばにある駐車場に車が数台停まっていましたが、展望台には誰もいません。私の独り占めです。

(所在地:長崎市出雲2-144-1)
   
 
   

       湾口にある長崎女神大橋が見えますが、気温が高いため靄っています。

対岸にある三菱造船第2船渠と第1船渠。第1船渠には建造中の大型のLNGがあります。
 
   
 
左端は海上自衛隊の護衛艦「あしがらDDG-178、」中央のクレーンがあるところは世界遺産の三菱造船第三船渠、右側には海上自衛隊のイージス艦「こんごうDDG-173」と護衛艦「しらぬいDD-120」。その後ろの森のところには世界遺産に登録されている占勝閣(非公開)があります。 
 
 

長崎湾の風景。対岸には稲佐山の展望台が見えます。
 
 
 
グラバー園、カトリック大浦教会そして大浦天主堂などが見渡せます。 手前右側は長崎水辺の森公園、中央奥は旭大橋、その右側の建物は長崎県庁です。  
 




南山手乙二十七番館

現在は、長崎市南山手レストハウスとなっているこの建物は、元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)に建てられたとされる石造りの初期居留地住宅で、テラスは、石柱と木柱を併用している独特の様式で建てられています。
建物は、グラバー園の第2ゲートのすぐそばにあり、気軽に利用できる施設となっています。

(所在地:長崎市南山手町7-5)
 
   




祈念坂

「坂の街長崎」でも「ドンドン坂」と並んで穴場の坂で、歩いている観光客は見かけません。坂は南山手乙二十七番館から、祈りの祈りの三角ゾーンと呼ばれるところまで約170m、傾斜は16度ほどあります。
坂を下りてくると、普段なら途中に大浦天主堂が左側に見えるのですけど、工事中の幕が張ってあって何も見えません。
   
 
   
   
   
   
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