長崎街歩き その5 | |||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
「長崎物語」の歌碑 昭和14年(1939年)に梅木三郎(本名 黒崎貞次郎)作詞、佐々木俊一の作曲で作られ、由利あけみが歌った、長崎物語の歌碑で、オランダ坂の途中にある小さな公園に設けられています。 戦後ラジオから流れてくる「赤い花なら 曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」で始まる歌は、昭和30年代までよく歌われており、私も子供の頃口ずさんだ記憶があります。 因みに梅木三郎は、毎日新聞社社会部長を務め、後にプロ野球パリーグの設立に参加し理事長を務めていました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
東山手甲十三番館 オランダ坂の途中にあるこの建物は、明治27年(1894年)ごろに建てられたもので、旧フランス領事館として使用されていたこともあります。 現在は、カフェとして利用されていて、2階には当時をしのばせる家具や、衣装も展示されており、レトロファッションを借用して写真を撮ってもらうこともできます。 (所在地:長崎市東山手町3-1) |
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
東山手十二番館 東山手の居留地で残っている洋館としては、最も古は明治元年(1868年)に建てられたもので、国の重要文化財に登録されています。 竣工当初はロシア領事館として使用され、その後アメリカ領事館、メソジスト派宣教師の住宅などに用いられ、昭和16年(1941年)には活水学園に譲渡されていました。昭和51年(1976年)には長崎市に寄贈され、修復後は「旧居留地私学歴史資料館」として利用されています。 (所在地:長崎市東山手町3-7) |
|||||||||||||||||||||||||||||||
ラッセル記念館 メソジスト派の宣教師で、活水学園を創設したエリザベス・ラッセルに因んだ建物ですが、明治22年(1889年)ごろに建てられたといわれていますが定かではありません。 現在は、活水学園の同窓会館などに利用されているようです。 (所在地:長崎市東山手町3) |
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
東山手洋風住宅群 東山手居留地の西側にあるこの住宅群は、明治20年代の後半にに建てられたといわれており、斜面の狭い箇所に7棟の洋風住宅が集まっています。 7棟の建物は、建物の構造や間取りなどが同じようなため、社宅或は賃貸住宅として建てられたものではないかと見られていますが定かではないようです。 現在、この住宅群は、東山手地区町並み保存センターや古写真・埋蔵資料館として利用されています。 (所在地:長崎市東山手町6-25) |
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
大成殿 儀門を通ってから正面に見えるのが大成殿です。大聖殿内には世界四大聖人と讃えられている孔子の座像が安置されています。 大成殿の手前の左右の両廡(「りょうぶ」と読み回廊となっています。)と、大聖殿の両側には、等身大で彫られた孔子の高弟である72賢人の像があります。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
72賢人像の一部(左側の部分) |
72賢人像の一部(大聖殿奥左側の部分) |
||||||||||||||||||||||||||||||
両廡 回廊にあたる両廡は、大聖殿の手前両側に、西廡と東廡にあって、賢人、儒人を祀る祠堂となっており、硝子で囲われた内部には、大理石に彫られた論語が掲げられています。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
孫文と梅屋庄吉・トク夫妻の像 大浦海岸通りの 松ヶ枝橋傍に建てられているこの銅像は、中華民国建国の父と呼ばれる孫文と、孫文の革命運動を支援した梅屋庄吉・トク夫妻の銅像です。 明治元年(1868年)に長崎で生まれ、幼少期に貿易商の梅屋家に養子入りした庄吉は、香港に渡って写真館を経営したり、貿易商として地位を築きました。 明治28年(1895年)には香港の写真館を訪れた孫文と知り合い、当時欧米列強各国に虐げられていた祖国に対する考えに支援することを決意し、日活の前身である映画会社М・パテー商会の映画事業で得た資金など、現在の貨幣価値にすると1兆円を超えるといわれる多額の資金を援助して辛亥革命の成就に寄与していた人です。 (所在地:長崎市松が枝町7-1) |
|||||||||||||||||||||||||||||||
旧香港上海銀行長崎支店記念館(重要文化財) 明治25年(1892年)に開設された香港上海銀行長崎支店のあった建物で、明治37年(1904年)に竣工しており、長崎市内の石造り洋館として最大の規模の建物です。 当時、神戸以西では唯一の外国銀行であり、在留外国人や貿易商を対象にして外国為替、外貨の売買を主要業務としていました。 昭和6年(1931年)に銀行業務が閉鎖された後は、大浦警察署、長崎市立歴史民俗資料館として利用され、現在は、旧香港上海銀行長崎支店記念館となっており、中には銀行業務時代のカウンターなども残されており、最近では、「孫文・梅屋庄吉ミュージアム」も併設されるようになりました。 (所在地:長崎市松が枝町4-27) |
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
トップページに戻る 長崎街歩き その6を見る | |||||||||||||||||||||||||||||||