長崎街歩き その5  
   




鉄道発祥の地碑と運上所跡の碑

長崎市民病院の駐車場の一角に設けられているこの二つの記念碑があるところは、安政五ヶ国条約によって開港された長崎に設けられた外国人居留地である大浦居留地があったところです。

左の鉄道発祥の地碑は、トーマス・グラバーが、大浦居留地内にグラバー商会をおいていたところで、元治2年(1865年)に、日本人に鉄道を紹介するため、この地にレール約600mを施設して、蒸気機関車「アイアン・デューク号」に客車2両を連結して走らせたところです。
右側の運上所跡の碑は、銅座町にあった表物役所が、開国後にこの地に移転して運上所として輸出入貨物の取り締まりや関税の徴収を行っていたところで、明治6年(1873年)には長崎税関と改称されています。
この運上所では、慶応3年(1867年)に発生した、英国艦隊イカルス号の水兵2人が何者かに殺害された「イカルス号事件」の裁判が行われ、当時、亀山社中を結成して長崎にいた坂本龍馬が、裁判に立ち会っています。

(所在地:長崎市新地町6)
    
          




梅ヶ崎ロシア仮館跡

鉄道発祥の地碑と運上所跡の碑より100mほど南側に建てられているこの説明板は、延宝8年(1680年)に埋め立てられた、梅ヶ崎と名付けられた場所で、文化元年(1804年)に通商を求めて長崎港内に投錨した、ロシアの軍艦ナジェジダ号のレザノフ使節達が、ロシア仮館を建てたところです。(この場所には当初石碑があったようですが、市民病院建設の再開発で撤去されてそのままとなっているようです。)
この地では、文化2年(1805年)に、日本人が見たこともない気球を飛ばしており、それが街中に落下したことで事件となり、当時幕府目付であった遠山景晋金四郎(遠山景元金四郎の父)が、幕府代表として来長し、通商を拒絶していました。(これが発端となって翌年に樺太、択捉で「レザノフ事件」が発生しています。)


長崎にはこのほかにも、「ロシア村」をはじめロシアの旧跡がいくつもあるようですが、ドジなことに説明板の写真だけ撮って見て回るのを忘れていました。

(所在地:長崎市新地町6-6)
   
          
 
大浦海岸通りの説明板と旧英国領事館の碑の碑

出島跡のある大波止交差点から南の野茂崎まで至る国道499号線(実際には野茂崎から海上国道を経て鹿児島県の阿久根市まで続いています。)ですが、別名「大浦海岸通り」と呼ばれています。
現在は通りの西側は埋め立てられて水辺のプロムナードとなっていますが、開港当時は海に面した海岸通りとなっていて、波止場となっていたようで、アメリカ領事館や英国領事館、商社が建ち並んでいて、外国人を乗せた人力車が行き交い、「大浦バンド」と呼ばれたメインストリートとなっていました。
現在でも英国領事館の建物は重要文化財の旧英国領事館として現存していますが、あいにくと大規模な修繕工事が行われていて、その石碑だけしか見ることができません。右端の写真は領事館横にある領事館の小路です。


(所在地:長崎市大浦町1)
     
 
    
大浦東山手居留地跡の碑

安政5年(1858年)に、安政5ヶ国(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシア)条約を締結し、長崎を開港した際に、最初に設けられた外国人居留地です。
居留地のあるところは「活水坂」と名がついていますが、居留地となった時代に、西洋人といえばオランダ人と思っていた町の人たちが「オランダさん」と呼んでいたこともあって、「オランダ坂」と呼ばれるようになったといわれています。
この東山手居留地跡の一帯は、長崎市東山手伝統的建造物群保存地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

(所在地:長崎市東山手町)
    湊会所跡の碑

オランダ坂通りに入ってすぐのところにあるこの石碑は、湊会所が設けられていたところです。
長崎に出島が造られた後の元禄11年(1698年)に、長崎奉行が管理する長崎会所が設けられ、貿易に関する一切の業務を取り仕切っていましたが、安政の通商諸条約の締結によって、安政6年(1859年)に神奈川(横浜)・箱館(函館)と同時に長崎が開港された際に、湊会所と名を改めてその業務を行っていました。
会所は、文久3年(1863年)には長崎運上所と名を改め、明治5年(1872年)に長崎税関となっています。

(所在地:長崎市東山手町2-3)
 
 
   




オランダ坂

大浦海岸通りから東山手の居留地跡を通って、長崎電鉄の石橋電停までの間が「オランダ坂」通りと名付けられています。
この道は、眼下に長崎の港を見渡すことができる景観となっていて、現在でも当時の面影を残す居留地時代の洋館が残されており、「日本の道百選」にも選定されている坂道です。
この坂道自動車は通ることはできますが、あまりにも急な坂なので、自転車での通行は禁止されているようです。

とはいっても年寄りには坂の街長崎、歩くにはとてもきつい街です。
     
 
   
「長崎物語」の歌碑

昭和14年(1939年)に梅木三郎(本名 黒崎貞次郎)作詞、佐々木俊一の作曲で作られ、由利あけみが歌った、長崎物語の歌碑で、オランダ坂の途中にある小さな公園に設けられています。
戦後ラジオから流れてくる「赤い花なら 曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」で始まる歌は、昭和30年代までよく歌われており、私も子供の頃口ずさんだ記憶があります。

因みに梅木三郎は、毎日新聞社社会部長を務め、後にプロ野球パリーグの設立に参加し理事長を務めていました。
 
   




東山手甲十三番館

オランダ坂の途中にあるこの建物は、明治27年(1894年)ごろに建てられたもので、旧フランス領事館として使用されていたこともあります。
現在は、カフェとして利用されていて、2階には当時をしのばせる家具や、衣装も展示されており、レトロファッションを借用して写真を撮ってもらうこともできます。

(所在地:長崎市東山手町3-1)
 
   
     
 
   




東山手十二番館

東山手の居留地で残っている洋館としては、最も古は明治元年(1868年)に建てられたもので、国の重要文化財に登録されています。
竣工当初はロシア領事館として使用され、その後アメリカ領事館、メソジスト派宣教師の住宅などに用いられ、昭和16年(1941年)には活水学園に譲渡されていました。昭和51年(1976年)には長崎市に寄贈され、修復後は「旧居留地私学歴史資料館」として利用されています。

(所在地:長崎市東山手町3-7)
 
 
 
 




ラッセル記念館

メソジスト派の宣教師で、活水学園を創設したエリザベス・ラッセルに因んだ建物ですが、明治22年(1889年)ごろに建てられたといわれていますが定かではありません。
現在は、活水学園の同窓会館などに利用されているようです。

(所在地:長崎市東山手町3)
 
   




旧イギリス領事館の遺構

東山手の居留地にはいくつもの領事館が建てられ、「領事館の丘」とも呼ばれていました。この石垣は、イギリス領事館の建物があったところで、領事館が移転した後は、スチイル記念学校、東山学院、東稜中学校、海星学院と変遷しました。
右の写真は、領事館の説明板にある写真ですが、当時の領事館の様子を、大浦海岸通りにある松ヶ枝橋付近から撮ったもののようです。

(所在地:長崎市東山手町3)
   
 
   




東山手洋風住宅群

東山手居留地の西側にあるこの住宅群は、明治20年代の後半にに建てられたといわれており、斜面の狭い箇所に7棟の洋風住宅が集まっています。
7棟の建物は、建物の構造や間取りなどが同じようなため、社宅或は賃貸住宅として建てられたものではないかと見られていますが定かではないようです。
現在、この住宅群は、東山手地区町並み保存センターや古写真・埋蔵資料館として利用されています。

(所在地:長崎市東山手町6-25)
 
   
   
 
   




長崎孔子廟

オランダ坂の下りきったところにある孔子廟は、明治26年(1893年)に、清国政府と在日の華僑が協力して建てたもので、日本国内にいくつかある孔子廟の中でも、最も見ごたえのあるものといわれています。

写真は孔子廟の入口となる學門(左)と塀にある龍の彫刻(右)です。

(所在地:長崎市大浦町10-36)
   
 
   
 



儀門(左)と福建石獅(右)

儀門は孔子廟の正門となる門で、昭和初期にこの地を襲った台風により破壊され、昭和42年(1967年)に再建されています。
門の中央部は、神様と皇帝以外の通行は禁止されている神聖な門となっており、参拝者は両側の門を利用します。
門の前にある一対の石獅は、孔子廟創建90周年を記念して福建省より寄贈された、恵安県産の石獅です
 
 
 
 
大成殿

儀門を通ってから正面に見えるのが大成殿です。大聖殿内には世界四大聖人と讃えられている孔子の座像が安置されています。
大成殿の手前の左右の両廡(「りょうぶ」と読み回廊となっています。)と、大聖殿の両側には、等身大で彫られた孔子の高弟である72賢人の像があります。
 

72賢人像の一部(左側の部分)

72賢人像の一部(大聖殿奥左側の部分)
 
   
 



両廡

回廊にあたる両廡は、大聖殿の手前両側に、西廡と東廡にあって、賢人、儒人を祀る祠堂となっており、硝子で囲われた内部には、大理石に彫られた論語が掲げられています。
 
   
   
 
    




孫文と梅屋庄吉・トク夫妻の像

大浦海岸通りの 松ヶ枝橋傍に建てられているこの銅像は、中華民国建国の父と呼ばれる孫文と、孫文の革命運動を支援した梅屋庄吉・トク夫妻の銅像です。
明治元年(1868年)に長崎で生まれ、幼少期に貿易商の梅屋家に養子入りした庄吉は、香港に渡って写真館を経営したり、貿易商として地位を築きました。
明治28年(1895年)には香港の写真館を訪れた孫文と知り合い、当時欧米列強各国に虐げられていた祖国に対する考えに支援することを決意し、日活の前身である映画会社М・パテー商会の映画事業で得た資金など、現在の貨幣価値にすると1兆円を超えるといわれる多額の資金を援助して辛亥革命の成就に寄与していた人です。


(所在地:長崎市松が枝町7-1)
   
       




旧香港上海銀行長崎支店記念館(重要文化財)

明治25年(1892年)に開設された香港上海銀行長崎支店のあった建物で、明治37年(1904年)に竣工しており、長崎市内の石造り洋館として最大の規模の建物です。
当時、神戸以西では唯一の外国銀行であり、在留外国人や貿易商を対象にして外国為替、外貨の売買を主要業務としていました。
昭和6年(1931年)に銀行業務が閉鎖された後は、大浦警察署、長崎市立歴史民俗資料館として利用され、現在は、旧香港上海銀行長崎支店記念館となっており、中には銀行業務時代のカウンターなども残されており、最近では、「孫文・梅屋庄吉ミュージアム」も併設されるようになりました。

(所在地:長崎市松が枝町4-27)
   
   
 
 
 
   
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