長崎街歩き その4(グラバー園)  
  
 
   


グラバー園

南山手居留地にあるグラバー園は、安政6年(1859年)に長崎が開港された後に、来住したイギリス人商人のグラバー、リンガー、オルト達の旧邸があった場所に、市内の歴史的建造物を移設したもので、旧三菱第2ドックハウス、旧ウォーカー住宅など多くの洋風建築の歴史的建物を移築しており、野外博物館となっています。

グラバー園のある南山手地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されており、重要文化財に指定された建物があります。
グラバー園への入口は、第1ゲートと第2ゲートの2ヶ所があります。写真左側は第1ゲート、右は第2ゲートです。
   
 
     
  水道共用栓

動く歩道の傍にあるこの水道共用栓は、明治24年(1891年)にリンガー(フレデリック・リンガー)に招かれて長崎に来た、イギリス人の土木技師J.W.ハー(トジョン・ウィリアム・ハート)によって設計され完成したものです。
当時は水道栓番という者がいて、この共用水栓の開閉を毎朝、毎晩行っていたとのことです。
    電話ボックス

電話ボックスのガラスには「自働電話」と書かれています。
明治33年(1990年)に東京の上野駅と新橋駅の間で日本で初めて公衆電話が使えるようになりましたが、電話ボックス方の公衆電話は、明治34年(1991年)に東京・京橋に設置されたのが初めで、この電話ボックスをそれを復元したものです。
これと同じ形の六角錐型の電話ボックスは横浜の元町公園そばに置かれています。
 
        
第1ゲートから園内に入り、動く歩道で園内のいちばん上まで行って、旧三菱第2ドックハウスから見て回ります。ここは第2ゲートを入ってすぐのところとなります。
 
旧三菱第2ドックハウス
明治29年(1896年)に、三菱重工長崎造船所の第2船渠(ドック)傍に建てられた船員の休憩宿泊施設を、昭和47年(1974年)に移築したもので、ドックに入った船の修理が終わるまで、船員たちがここで休憩、宿泊をしていました。
 
 
   
     

建物内には帆船の模型、写真などが展示されています。
 
ベランダからは長崎湾や対岸にある稲佐山などが一望できます。
 
     
  地番境と居留地境の石柱(写真の左側)、造船所の錨(写真の左側)

地番境は各居留地の地番を表示していました。今でいう境界柱の役割をしていたものでしょうか。また、居留地境は外国人の居留地と日本人居住地の境を示していました。
造船所の錨は、長崎造船所で用いていた錨で、後ろにあるのがストックアンカー(有銲錨)、前におかれているのがストックレスアンカー(有銲錨)です。
ストックアンカーとストックレスアンカーの違いは、銲錨(びょうかん)と呼ばれる錨の上部に幹と直角につけた鉄棒があるかないかですが、現在はほとんどの錨がストックレスアンカーとなっています。


 
     
  高島和砲

幕末の長崎に生まれ、高島流砲術を完成した高島秋帆の指導により、鉄砲鍛冶師の野川清造が鋳造したと伝えられる和砲です。
和砲横の説明板には当時の訓練状況を物語る絵があります。
 
      
  旧長崎高商表門衛所

旧長崎高商は、正式な学校名を長崎高等商業学校といい、明治38年(1905年)に、全国で4番目に創立された旧制専門学校で、長崎県内では長崎医学専門学校(現 長崎大学医学部)についで設立された学校です。
学校名は、第二次世界大戦中に長崎経済専門学校(長崎経専)と改称され、戦後の昭和24(1949年)年に新制長崎大学が設立されるとこれに包含されて、長崎大学長崎経済専門学校と改称、同時に長崎大学経済学部が発足しており、長崎経専は昭和26年(1951年)の卒業式をもって廃校となっています。
この表門の門衛所は、創立時に建てられたもので、洋館風の建物ですが、内部は畳貼りとなっいて、昭和51年(1976年)に移築されたものです。
 
     
  旧長崎地方裁判所長官舎

市内八百屋町(現 上町)に、明治16年(1883年)に長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として建てられたものですが、居留地外の市街地であったことから、原爆の被害で多くの遺構を失った中で唯一残された貴重な建物で、木造二階建てで、玄関は洋館としては珍しい破風造りとなっています。
建物は、昭和54年(1979年)にこの地に移築復元され、内部はレトロ写真館として利用されています。
 
   
  旧ウォーカー住宅

南山手居留地の大浦天主堂の傍にに、明治時代の中頃に建てられたと推定されている建物を、ウォーカー商会を設立したロバート・ウォーカー・ジュニアが、大正4年(1915年)に購入し、昭和33年(1958年)に亡くなるまで暮らしていたもので、彼が亡くなった後に建物の一部を、妻のシゲコ・メーベルが市に寄贈、その後この地に移築されています。

ロバート・ウォーカー・ジュニア(Robert Walker Jr.)は、イギリス出身の船長ロバート・N・ウォーカー(Robert Neill Walker)の次男で、ロバート・N・ウォーカーは、横浜で麒麟麦酒の前身となるトーマス・B・グラバーと共にジャパン・ブルワリ・カンパニーを設立した人です。
 
     
  フリーメイソン・ロッジ(集会所)の門柱

フリーメイソン(英: Freemasonry)とは、中世のイギリスで、石工組合が用いだした暗号からとか、テンプル騎士団が造った組織が起源ではないかとか、諸説があってその起源が定かでない友愛結社で、現在はその会員数が600万人を超えるともいわれています。
この門柱は、熱心なイギリス人会員が、自宅の門にフリーメイソンのシンボルを刻んで設けたもので、そこから移築されたものです。
 
     
  TEIKO桜

17歳で単身イタリアのミラノに渡って大正11年に「蝶々夫人」でデビューし、引退するまで1000回以上も、ヨーロッパの舞台で活躍したオペラ歌手の喜波貞子(きわていこ)の遺品が、グラバー邸に寄贈されたことを記念して植樹された桜です。
この桜は、イギリスでベニヤマザクラとコヒガンザクラを交配させて品種改良された、春と秋の2回花を咲かせる「アーコレード」という品種です。
年に2回花をつける桜としては、10月桜や四季桜というのがありますが、初めて見た桜ですけど、少し大輪の八重咲きで、美しい桜です。。
 
 
        
  旧リンガー住宅

グラバー商会の幹部として元治元年(1864年)頃に長崎に来て、ホーム・リンガー商会を設立。茶の製造と輸出、アメリカからの木材の輸入などを手がけていた、フレデリック・リンガー(Frederic Ringer)が、明治元年(1868年)頃にトーマス・グラバーから借地権を譲渡されて建てたと推定される家で、リンガーの亡きあとは、次男のシドニー・アーサー・リンガーが住んでいた石造りの洋館です。隣には兄のフレデリック・エラスムス・エドワード・リンガーが住んでいた旧オルト住宅があることから、「旧リンガー(弟)住宅」とも呼ばれています。
シドニー・アーサー・リンガーは、第二次世界大戦時はイギリスに戻っていましたが、戦後この地に戻って昭和40年(1965年)まで住み、その後長崎市に譲渡されており、翌年には国の重要文化財に登録されています。
 
     
  旧オルト住宅

安政年間(1859年頃)に長崎に来たイギリス人商人のウィリアム・ジョン・オルト(William J. Alt)が、慶応元年(1865年)から明治元年(1868年)までの3年間住んでいた家で、西に面したベランダとポーチには石造のトスカナ式円柱が特徴となっており、ポーチ前に造られた噴水も同時期に造られたといわれています。
この家は、オルトが退去した後には活水女学校、フレデリック・リンガー、リンガーの長男のフレデリック・エラスムス・エドワード・リンガーと所有者が移り、、昭和18年(1943年)には川南造船所が取得、昭和45年(1970年)には長崎市の所有となりました。
尚、この間の昭和41年(1961年)には建物全体が国の重要文化財に登録されています。

トスカナ式円柱とは、紀元前8世紀から紀元前1世紀頃までイタリア中部にあった、都市国家エトルリアの神殿建築によく用いられていた円柱と梁の構成法です。
 
     
  旧スチイル記念学校

明治20年(1887年)に、当時アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が、18歳で亡くなった息子のヘンリーを記念するため、資金を寄付したことにより、東山手の居留地に設立された、学校の校舎でした。
以来、学校の名前は、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と変わりましたが、昭和7年(1932年)まで、特色ある学風を長崎の教育史に刻みました。
更に校名は、長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園校舎と変遷して、昭和45年(1970年)に、海星学園より保存のためと長崎市に寄付され、翌年ここに移築されています。
 
     
  プッチーニ像

ジャコモ・プッチーニはイタリアのルッカの生まれで、明治時代の長崎を舞台にしたオペラ「マダム・バタフライ」他多数の曲を作曲していますが、左の大理石像は長崎とルッカの友好と世界平和を祈念して寄贈されたもので、プッチーニの左肩には蝶々がとまっています。
右端の像は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手三浦環の像で、「蝶々夫人」を演じるのを得意としていました。

ルッカには、プッチーニの生家が今でも残されています。
   
 
     
旧グラバー住宅

安政6年(1859年)の長崎開港直後に来航したイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)が、南山手の高台にあるこの地を借り受けて、文久3年(1863年)に建てた木造平屋建、多角形の寄棟造、桟瓦葺き、建築面積510.8㎡の木造洋館で、現存する洋館建築では日本最古のものとなっており、昭和36年(1961年)には国の重要文化財に指定され、平成27年(2015年)には明治日本の産業革命遺産を構成するひとつとしてユネスコの世界遺産に登録されています。
グラバーは、73歳で亡くなるまでこの家に住み続け、彼の死後は庶子の倉場富三郎が住んでいましたが、その後、当時戦艦武蔵を建造中であった三菱重工が、建造を秘匿するために取得。終戦後は進駐軍の宿舎となった時期もありましたが、長崎市に寄付されて、修繕を施して明治の姿を取り戻して一般に開放されることになりました。
   
 
     

応接室前
 
北側にある温室(白い窓枠の部分)
 
   
     
 
 部屋に入ってみるとグラバー家で使用していた備品などが残されています。廊下には隠し部屋(右端の写真)も設けられていました。  
   

トーマス・グラバーとツル夫人の写真
 
グラバー愛用のステッキ(右)とグラバーが故郷スコットランド・フレイザーバラの街を描いた絵(左)
 
     
    ハート形の石(左の写真)と洞(右の写真)

園内のグラバー邸近くには、敷石にハート形をした石が敷かれています。見つけようと下を向いて歩かなければなりませんが、そうすると写真は撮れないし、捜す気ではなかったのですが、運よく敷かれている2つのハート形の石を見つけました。
2つ見つけるといいことがあるとの言伝えですが、今年はなんかいいことが起きるのでしょうか・・・・・
家に帰って調べていたら、もう一つあるそうです。といってもそれは敷石ではなく、園外にある長崎伝統芸能館のレジのところだそうです。

上というか前を見ながら歩いていると右のような木の洞(うろ)を発見。ハート形です。
 
 
     

展望台からは長崎の町並みが一望できます。
 
桜の花も3月末なのにすでに満開となっています。
 
   
   
     
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