長崎街歩き その4(グラバー園) | ||||||||||
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第1ゲートから園内に入り、動く歩道で園内のいちばん上まで行って、旧三菱第2ドックハウスから見て回ります。ここは第2ゲートを入ってすぐのところとなります。 旧三菱第2ドックハウス 明治29年(1896年)に、三菱重工長崎造船所の第2船渠(ドック)傍に建てられた船員の休憩宿泊施設を、昭和47年(1974年)に移築したもので、ドックに入った船の修理が終わるまで、船員たちがここで休憩、宿泊をしていました。 |
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建物内には帆船の模型、写真などが展示されています。 |
ベランダからは長崎湾や対岸にある稲佐山などが一望できます。 |
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地番境と居留地境の石柱(写真の左側)、造船所の錨(写真の左側) 地番境は各居留地の地番を表示していました。今でいう境界柱の役割をしていたものでしょうか。また、居留地境は外国人の居留地と日本人居住地の境を示していました。 造船所の錨は、長崎造船所で用いていた錨で、後ろにあるのがストックアンカー(有銲錨)、前におかれているのがストックレスアンカー(有銲錨)です。 ストックアンカーとストックレスアンカーの違いは、銲錨(びょうかん)と呼ばれる錨の上部に幹と直角につけた鉄棒があるかないかですが、現在はほとんどの錨がストックレスアンカーとなっています。 |
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高島和砲 幕末の長崎に生まれ、高島流砲術を完成した高島秋帆の指導により、鉄砲鍛冶師の野川清造が鋳造したと伝えられる和砲です。 和砲横の説明板には当時の訓練状況を物語る絵があります。 |
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旧長崎高商表門衛所 旧長崎高商は、正式な学校名を長崎高等商業学校といい、明治38年(1905年)に、全国で4番目に創立された旧制専門学校で、長崎県内では長崎医学専門学校(現 長崎大学医学部)についで設立された学校です。 学校名は、第二次世界大戦中に長崎経済専門学校(長崎経専)と改称され、戦後の昭和24(1949年)年に新制長崎大学が設立されるとこれに包含されて、長崎大学長崎経済専門学校と改称、同時に長崎大学経済学部が発足しており、長崎経専は昭和26年(1951年)の卒業式をもって廃校となっています。 この表門の門衛所は、創立時に建てられたもので、洋館風の建物ですが、内部は畳貼りとなっいて、昭和51年(1976年)に移築されたものです。 |
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旧長崎地方裁判所長官舎 市内八百屋町(現 上町)に、明治16年(1883年)に長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として建てられたものですが、居留地外の市街地であったことから、原爆の被害で多くの遺構を失った中で唯一残された貴重な建物で、木造二階建てで、玄関は洋館としては珍しい破風造りとなっています。 建物は、昭和54年(1979年)にこの地に移築復元され、内部はレトロ写真館として利用されています。 |
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旧ウォーカー住宅 南山手居留地の大浦天主堂の傍にに、明治時代の中頃に建てられたと推定されている建物を、ウォーカー商会を設立したロバート・ウォーカー・ジュニアが、大正4年(1915年)に購入し、昭和33年(1958年)に亡くなるまで暮らしていたもので、彼が亡くなった後に建物の一部を、妻のシゲコ・メーベルが市に寄贈、その後この地に移築されています。 ロバート・ウォーカー・ジュニア(Robert Walker Jr.)は、イギリス出身の船長ロバート・N・ウォーカー(Robert Neill Walker)の次男で、ロバート・N・ウォーカーは、横浜で麒麟麦酒の前身となるトーマス・B・グラバーと共にジャパン・ブルワリ・カンパニーを設立した人です。 |
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フリーメイソン・ロッジ(集会所)の門柱 フリーメイソン(英: Freemasonry)とは、中世のイギリスで、石工組合が用いだした暗号からとか、テンプル騎士団が造った組織が起源ではないかとか、諸説があってその起源が定かでない友愛結社で、現在はその会員数が600万人を超えるともいわれています。 この門柱は、熱心なイギリス人会員が、自宅の門にフリーメイソンのシンボルを刻んで設けたもので、そこから移築されたものです。 |
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旧リンガー住宅 グラバー商会の幹部として元治元年(1864年)頃に長崎に来て、ホーム・リンガー商会を設立。茶の製造と輸出、アメリカからの木材の輸入などを手がけていた、フレデリック・リンガー(Frederic Ringer)が、明治元年(1868年)頃にトーマス・グラバーから借地権を譲渡されて建てたと推定される家で、リンガーの亡きあとは、次男のシドニー・アーサー・リンガーが住んでいた石造りの洋館です。隣には兄のフレデリック・エラスムス・エドワード・リンガーが住んでいた旧オルト住宅があることから、「旧リンガー(弟)住宅」とも呼ばれています。 シドニー・アーサー・リンガーは、第二次世界大戦時はイギリスに戻っていましたが、戦後この地に戻って昭和40年(1965年)まで住み、その後長崎市に譲渡されており、翌年には国の重要文化財に登録されています。 |
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旧オルト住宅 安政年間(1859年頃)に長崎に来たイギリス人商人のウィリアム・ジョン・オルト(William J. Alt)が、慶応元年(1865年)から明治元年(1868年)までの3年間住んでいた家で、西に面したベランダとポーチには石造のトスカナ式円柱が特徴となっており、ポーチ前に造られた噴水も同時期に造られたといわれています。 この家は、オルトが退去した後には活水女学校、フレデリック・リンガー、リンガーの長男のフレデリック・エラスムス・エドワード・リンガーと所有者が移り、、昭和18年(1943年)には川南造船所が取得、昭和45年(1970年)には長崎市の所有となりました。 尚、この間の昭和41年(1961年)には建物全体が国の重要文化財に登録されています。 トスカナ式円柱とは、紀元前8世紀から紀元前1世紀頃までイタリア中部にあった、都市国家エトルリアの神殿建築によく用いられていた円柱と梁の構成法です。 |
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旧スチイル記念学校 明治20年(1887年)に、当時アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が、18歳で亡くなった息子のヘンリーを記念するため、資金を寄付したことにより、東山手の居留地に設立された、学校の校舎でした。 以来、学校の名前は、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と変わりましたが、昭和7年(1932年)まで、特色ある学風を長崎の教育史に刻みました。 更に校名は、長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園校舎と変遷して、昭和45年(1970年)に、海星学園より保存のためと長崎市に寄付され、翌年ここに移築されています。 |
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応接室前 |
北側にある温室(白い窓枠の部分) |
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部屋に入ってみるとグラバー家で使用していた備品などが残されています。廊下には隠し部屋(右端の写真)も設けられていました。 | ||||||||||
トーマス・グラバーとツル夫人の写真 |
グラバー愛用のステッキ(右)とグラバーが故郷スコットランド・フレイザーバラの街を描いた絵(左) |
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展望台からは長崎の町並みが一望できます。 |
桜の花も3月末なのにすでに満開となっています。 |
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