長崎街歩き その2  
 
 
   


西坂公園

長崎駅からほど近いところにある西坂公園、駅前の浦上街道から少し坂を上ったところにあります。この地は西坂の丘と呼ばれており、慶長2年(1597年)に、豊臣秀吉の命によって、6人の外国人宣教師と20名の日本人信徒が、キリスト教弾圧の最初の犠牲者となった場所です。
処刑された人たちは、この丘がゴルゴタの丘に似ていることからこの地での処刑を望んだとの言伝えが残されており、文久2年(1862年)には、ローマ皇教ピウス9世により列聖(聖人)とされ、昭和25年(1950年)には、ローマ教皇・ピオ十二世によって、この地がカトリックの公式巡礼地と定められました。
公園内には「昇天のいのり」と呼ばれる日本二十六聖人殉教記念碑はがあります。
また公園に隣接して日本二十六聖人記念館、聖フィリッポ教会があります。

写真は、日本二十六聖人殉教記念碑と聖フィリッポ教会です。

(所在地:長崎市西坂町4-21)
   
     
  日本二十六聖人殉教跡の碑(左)と日本二十六聖人殉教記念碑(右)  
 
     


水原秋桜子トと下村ひろしの句碑

句碑には
水原秋桜子が詠んだ
「天国の 夕焼を見ずや 地は枯れても」

下村ひろしが詠んだ
「たびの足 はだしの足の 垂れて冷ゆる」
の句が
刻まれています。
   

聖フィリッポ教会

設計者今井兼次による、モザイクタイル貼りの天使の羽をかたどった紡錘型の双塔が特徴的な教会で、聖堂の正式名称は、殉教者の一人フェリペ・デ・ヘススにちなんだ「日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会」といいます。
 
 
   
 

日本二十六聖人記念館

昭和37年(1962年)に、日本二十六聖人の顕彰を目的として建てられた博物館で、中には大航海時代のガレオン船の模型や16世紀末ごろの古地図、日本人現代作家の絵画などが展示されています。
また、正面にはアント二・ガウディの研究者であり、記念館の設計を手掛けた今井兼次によるモザイク画が描かれています。
 
     


長崎開港先駆者の碑

市電の新中川町駅の傍にある丸川公園に建てられたこの碑は、元亀2年(1571年)に、大村にある三城城の城主であった大村純忠が、横瀬浦に続いて長崎に港を開いてから425年にあたる平成7年(1995年)に、「長崎開港425年」を記念して建立されたものです。
碑には、少し見難いですけど、大村純忠(左側)と長崎甚左衛門(右側)の像が彫られていますが、長崎甚左衛門は開港当時の領主で、純忠の娘を正室にしており、ともにキリスト教の洗礼を受けいます。
なお、天正10年(1582年)にローマに派遣された天正遣欧使節団の一員であった千々石ミゲルは、純忠の甥で、純忠の名代として派遣されています。

(所在地:長崎市新中川町2-3)
   
       


シーボルト通り

諏訪神社前の市電の停留所から新大工町、桜馬場、そして鳴滝川(中島川の支流)に架かる古橋(中川橋)を渡ってシーボルトの旧宅跡までの道が「シーボルト通り」と名付けられています。
中央の写真は古橋で、旧長崎街道に位置していて、承応3年(1654年)に、唐大通事(中国語の通訳)であった林守壂が私費を投じて架けた石橋で、下流の眼鏡橋より20年ほど遅く架橋されています。
     
 
     

シーボルト旧宅跡

文政6年(1823年)8月に長崎に着いたシーボルト(正式にはフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトという長い名前です。)は、出島の商館医となる傍ら、翌年にここ鳴滝に鳴滝塾を開き、診療を行うほかに、西洋医学の教育を行いました。
鳴滝塾の塾生には、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英・伊藤圭介達の後に医者や学者として活躍した人達がいました。
また、シーボルトは植物学にも興味をもって、植物園を出島に開いたり、多くの植物を栽培したともいわれています。
シーボルトは、文政11年(1828年)に帰国する際には、難破した船から日本の地図が発見され、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となるシーボルト事件がありましたが、開国後の安政6年(1859年)に再来日、ここに居を構え、多くの情報をヨーロッパに伝え日本の近代化と国際交流に貢献しました。

中央の写真は旧宅跡にあるシーボルトの胸像で、右端の写真は隣接されているシーボルト記念館前にある若き日のシーボルト像です。

(所在地:長崎市鳴滝2-7)
     
 
     

           手前が鳴滝塾跡、門柱の奥に旧宅がありました。(国指定史跡)
 
                            倉庫跡
 
     
  シーボルト記念館

シーボルト旧宅の隣に、平成元年(1989年)シーボルトの業績を顕彰するため建てられたもので、オランダにあるシーボルトの旧宅などを模して造られていて、内部にはシーボルトの生涯について紹介する展示室、妻であったいねに関する資料など多くの重要文化財に指定された資料が展示されています。
 
     


龍馬通り

亀山社中記念館がある所まで、は龍馬通りの坂を上って行きます。
「坂の街長崎」といわれるだけあって、どこに行こうとしても坂道です。
坂道は距離200mほどですが、結構急な坂道で、途中には中央の写真のように「あと何m」と書かれた絵があります。
年寄には結構きつい坂道です。
     
 
     


亀山社中記念館

龍馬通りの坂を上り切ったところに、慶応元(1865)年
土佐藩を脱藩した坂本龍馬が中心となって、薩摩藩や商人の援助を受けて結成した、亀山社中(後の海援隊)があったところです。
現在は、当時の姿に近く遺構を整備して、竜馬の喪服やブーツ、刀などの複製、書簡などが展示されています。

(社中とは、広義には同じ目的を持つ人々で構成される仲間や組織をいいます。)

(所在地:長崎市伊良林2-7-24)
   
 
     
 

龍馬のぶーつ像

亀山社中記念館前の小さな広場には、龍馬が愛用したぶーつと船の舵輪を模したモニュメントが置かれています。
何故か「ブーツ」ではなく「ブーツ」と書かれています。このブーツ大人でも靴を履いたまま足を入れることができ、舵輪を握っったり、腕を組んで龍馬になった気分を射っとき味わうことができます。
この場所は高台にあるので、長崎の街並みが一望できます。

(所在地:長崎市伊良林2-5-11)


 
 
   
ここから更に坂道を上ると風頭公園があり、そこには龍馬の銅像がありますが、結構急な上り道とのこと。ここまで来るのでもくたびれたので、下に降りて街中を散策することに。  
     


光栄寺

中島川の一覧橋そばにある光栄寺、旧長崎市内では最も古く、慶長19年(1614年)の創建で、安政元年(1854年)には福沢諭吉が1年ほど寄宿し、蘭学を学んだところです。
また、明治12年(1879年)には長崎県会(現在の県議会)が初めて開催されました。

(所在地:長崎市桶屋町33)
   
 
   
中島川石橋群のタイル画

市内を流れ長崎港にそそぐ中島川、江戸時代には「大川」とも呼ばれていたそうです。
川には江戸時代からいくつも架けられており、石造りのアーチ橋は、17世紀に架けられたものが多く昭和期まで残っていました。
しかしながら昭和57年(1982年)の長崎大水害で、流された橋も多く、現在架けられている石造アーチ橋のうち、桃渓橋、眼鏡橋、袋橋以外はすべて新しく架け直された橋となっています。
 
 
   


眼鏡橋

寛永11年(1634年)に、興福寺二代目住持の唐僧黙子如定により架設された、中島川で最も古い石造りのアーチ橋です。
架けられた当初は、他の橋と同様に正式な名称はなく、「第十橋」と呼ばれていましたが、川面に移る橋の姿が双円を描いて、「めがね」のように見えることから、町の人は「めがね橋」とも呼んでいたようです。
明治15年(1882年)に当時の長崎区議長(現在の県議会議長に相当)の西道仙により正式に「眼鏡橋」と名付けられました。
橋は、「日本橋」、「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられており、国の重要文化財に指定されています。

(所在地:長崎市魚の町2)
 
下流側から撮影
 
上流側から撮影
 
     


シーボルトの桜

眼鏡橋傍にある中島川公園にある桜で、1866年頃シーボルトによってヨーロッパに紹介され、はじめてみる桜に魅了されたヨーロッパの人たちは、浮世絵師葛飾北斎の名をとって「ホクサイ」と呼んでいたと伝えられています。
この桜は八重桜の一種で、通常桜の花は香りがないようですけど、芍薬に似た香りがするとのことです。

(所在地:長崎市築町6-100)
   
     


下村ひろし(本名は宏)の句碑

中島川公園にある政治家であり、歌人であった下村ひろしの歌碑で、碑には「風花や 錦絵めきて 眼鏡橋」と刻まれています。
下村ひろしは、明治8(1875年)年和歌山に生まれ、東京帝国大学(現 東京大学)卒業後に逓信省()に入省。為替郵便局長、台湾総督府の民政長官、更に総務長官を歴任した後に退官し、朝日新聞に入社して専務、副社長を歴任しました。その後は、早稲田大学講師、貴族院議員、日本放送協会会長となり、太平洋戦争時では、鈴木貫太郎内閣の内閣情報局総裁となり、終戦時の玉音放送では、情報局総裁として本放送の前後に言葉を述べています。
歌人としては、佐々木信綱主宰の柏会に入会し、歌人や文化人を招いて歌会を開いたりしています。

(所在地:長崎市築町6-100)
   
       


水害復興と友好の記念碑

長崎の町は、昭和57年(1982年)の7月23日から翌日未明にかけて集中豪雨に見舞われ、死者、行方不明合わせて262人という被害を出しました。(「昭和57年豪雨」または「7.23長崎大水害」と呼ばれています。)
碑は、長崎とゆかりのある中国に依頼して作成された水害復興記念碑で、不思議な能力を持った伝説上の中国の少年と、元気な日本の少女が力を合わせて、風を呼び雨を呼ぶ巨大な龍を従わせている姿で、治水と日中の友好を象徴しています。

(所在地:長崎市築町6-100)
   
       


近藤昶次郎顕彰碑

中島川公園にある碑で、高知城下で饅頭商人の息子として生まれた長次郎は、当然のことながら姓はなく饅頭屋長次郎と呼ばれていました。
長次郎は幼少期より聡明であったことから、土佐では画家の河田小龍に、江戸に出て朱子学者の安積艮斎に学んで、文久3年に土佐第15代藩主の山内容堂より名字帯刀を許され、近藤姓を名乗り、神戸にある海軍操練所に入りました。
その後坂本龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立しましたが、長州藩とイギリスより購入したユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いが起きたり、グラバーの手を借りてイギリス留学の話のある中で、仲間たちより亀山社中の社中盟約書に違反したとして責任を取らされ、小曾根邸で29歳で自刃しました。
碑には、身重の妻に送った最後の句である、「うき雲の たちおほふなる うきよなり きへなハこれを 可たみともみよ」が刻まれています。

(所在地:長崎市築町6-100)
   
        

孫文先生故縁の地碑

この場所は、明治35年(1902年)に鈴木天眼(本名は力)によって「東洋日の出新聞」という東亜問題に精通した新聞社があったところです。
鈴木天眼は、明治期のジャーナリストで、国粋主義系の記者として名を馳せ、その後衆議院議員を1期在任しています。
東洋日の出新聞は、孫文の革命運動を支援していたことから、中華民国建国の父といわれる孫文は、長崎を9回訪れたそうですが、長崎にくるたびここを訪れたということです。

(所在地:長崎市油屋町2)
   
福地桜痴生誕の地碑

福地桜痴は、本名を福地源一郎といい、幕末から明治時代にかけてのジャーナリストであり、政治家、そして作家・劇作家と多岐にわたって活躍した人です。
桜痴は、天保12年(1841年)に儒医の息子として生まれ、漢学、蘭学を学んだ後に江戸に出て英語やイギリスのことを学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事し、幕府使節の一員として2度訪欧しています。
明治維新後の慶応4年には「江湖新聞」を創刊して、新政府を批判する記事を発行し、逮捕され、新聞は発禁処分を受けましたが、木戸孝允のとりなしで無罪放免とされました。
西南戦争では、田原坂の戦いの記事を書くため戦地に趣くなど精力的な活動を行い反面、演劇にも取り組み、明治22年(1889年)には歌舞伎座の創設にも参加しています。
明治39年(1906年)、衆議院議員として在職中に65歳で死去。


(所在地:長崎市油屋町2-31)
 
 
                       


崇福寺

寛永6年(1629年)に、長崎において貿易を行っていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州より僧超然を招いて創建した黄檗宗の寺院で、正式には聖壽山崇福寺といい、聖福寺、興福寺、福済寺とともに「唐四カ寺」または「長崎四福寺」と呼ばれています。
寺は中国様式で建てられており、中国様式の寺院としては日本最古のもので、福建省出身の信徒が多いため、福州寺又は支那寺とも呼ばれていました。

右の写真は、左右に脇門がある二重門形式の三門で、嘉永2年(1849年)に建てられており、重要文化財に指定されています。

(所在地:長崎市鍛冶屋町7-5)
 
   
 

第一峰門

三門を抜けて階段を上りきるとあるのが、この第一峰門で、海天門、唐門、二の門、中門、赤門などの別名があります。
門には「第一峰」と書かれた扁額と、「崇福禅寺」の扁額が掲げられています。
この門は、寛永21(1644)年に建立された四脚門で、国宝に指定されており、寧波で材料を仕込み、船で運んでうえで建てたといわれており、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組が施されています。
右の写真は四手先三葉栱の部分です。
 
 
   
   
国宝大雄宝殿

本堂のことを黄檗宗では「大雄宝殿」と名付けているようですが、この大雄宝殿は、第一峰門と同じく中国で素材を加工し、船で運んで組み立てを行ったもので、正保3年(1646年)に建立されています。当初は単層でしたが、後に上層が付け加えられて現在の姿になったものです。
  護法堂

享保16年(1731年)に建立されたもので、重要文化財に指定されています。
堂内の中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿、天王殿の別称があります。
 
       
   
媽姐堂(まそどう)

寛政6年(1794年)に唐の船主たちによって再建されたもので、媽姐は海の守護神であり、天后聖母(てんこうしょうぼ)・天妃(てんぴ)・老媽(のうま)・菩薩(ぼさ)その他の呼び名があり、船主たちが航海安全を祈願していました。
  媽姐門

媽姐堂の前にあるこの門は、媽祖堂門ともいい、文政10年(18276年)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。
 
     
   
大釜

長崎市指定の有形文化財に登録されている大釜は、口径6尺5寸(約1.9m)、深さが6尺(約1.82m)あって、天和2年(1682年)に鋳造されたもので、飢饉の際に施粥を行っていました。
 
  鐘鼓楼(しょうころう)

上層に梵鐘と太鼓が配置されていて、鐘楼と鼓楼を兼ねている珍しい建築で、中国で部材を加工して船で運び、建立したといわれていますが、棟札に享保13(1728)年の年号が記されていることから、棟梁が日本人ではとの説もあり、または再建されたものかもしれません。
 
   
 
 
 
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