長崎街歩きその3 | ||||||||||
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思案橋跡の碑 『思案橋ブルース』という歌の題名にもなった思案橋は、かつて玉帯川に架けられていた橋で、近くにある丸山遊郭を訪れた人が、「行こうか戻ろか」思案していたことから名付けられたといわれています。 最初に架けられたのは天正20年(1592年)とのことで、当時は川口橋、黒川橋と呼ばれたこともあったようです。 橋は土橋から木橋になっていましたが、火災で焼けたのちに石橋となりましたが、道路拡張のため川は暗渠となり、現在はその親柱が交差点に残されているだけとなっています。 (所在地:長崎市油屋町1) |
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旧宅跡には砲術の練習場もあったことから、屋敷の周囲は堅固な石垣で囲われています。庭の片隅には当時の砲弾の跡が残る砲痕石(上右の写真)があります。 | ||||||||||
原爆で破壊された雨声楼跡(上左)と、長崎最古といわれる石倉(上右)は倉庫或は煙硝倉として用いられていました。 | ||||||||||
「長崎茂木街道ここに始まる」の碑 茂木街道は、江戸時代において長崎の主要路であったようで、ここ正覚寺そばが起点となって、茂木港を経て船で南は薩摩、東に天草、そして陸路では西に島原へとつながっていたようです。 |
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土神(どじん)堂 唐人屋敷ができたのちの元禄4年(1691年)に、唐人の船主たちの願いで建てられたものですが、天明の大火で焼失。その再建され、修復も生田碑が行われましたが、原爆の被害を受けたことから解体され、石殿だけ残されていましたが、昭和52年(1977年)に再建されたのです。
(所在地:長崎市館内町16-17) |
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天后堂 文政年間の1820年頃に発刊された長崎名勝図絵によると、天文元年(1736年)に、天后聖母(道教の女神「媽祖」 の別名)を祀り、航海の安全祈願するために建立したのがはじまりとされています。 現在の建物は明治39年(1906年)に改築されています。 (所在地:長崎市館内町18-5) |
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観音堂 天后堂から4分ほど離れた住宅街に観音堂はありますが、天文2年(1737年)に創建されましたが、天明の大火火で焼失し、天明7年(1787年)に再建されており、大正時代に入って、この地に住んでいた中国人によって改築されています。 観音堂のある場所は緑ケ丘保育所のあるところですので、日によって機門扉が閉じられているかもしれません。 (所在地:長崎市館内町5-14) |
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俵物役所跡の碑・対馬藩蔵屋敷跡・長崎商工会議所発祥の地碑 俵物役所跡の碑 市電の築町停留所傍に建てられたこの碑は、江戸時代に中国との貿易において重要な輸出品となっていた俵物(ひょうものと読み、煎海鼠、鱶鰭、干し鮑など)を中心に収集、加工していたところです。当初は俵物請負方が俵物会所を運営していましたが、延享2年(1745年)に官営の役所に改められて運営されていました。 役所は、安政の開国により貿易量が減少したため、その機能を一時休止していますが、文久年間に産物会所として再開されています。 対馬藩蔵屋敷跡 寛永16年(1639年)の第5次鎖国令により入港を禁止されていたポルトガル船が、正保4年(1647年)に通商の再開を求めて来航しましたが、幕府はこれを拒否し、西国各藩に長崎警護を命じました。これにより永木の町には各藩が蔵屋敷を設置し、藩の産物を貯蔵販売するほか長崎奉行所と連携して警護にあたっていましたが、この場所は対馬藩の蔵屋敷が置かれていたところです。 長崎商工会議所発祥の地 明治12年(1879年)に、現在の商工会議所の前身となる長崎商法会議所が設置されたところで、昭和28年(1953年)に現在の組織に改編されています。 (所在地:長崎市銅座町1) |
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一番船船頭部屋(1階は倉庫となっており、2階は船長や商館員が住んでいました。) |
ヘトル部屋 |
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和蘭商館長(カピタン)が住んでいたカピタン部屋 |
メイン道路(両側には商館員の部屋や蔵が建ち並んでいます。) |
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旧出島神学校 明治11年(1878)に建てられた、現存する日本最古のプロテスタント神学校で、現在は1階に売店や休憩室があり、2階は会議室や図書室となっています。 |
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15分の1に縮小された「ミニ出島」が造られており、 当時の出島の様子を偲ぶことができます。 | ||||||||||
旧石倉 江戸時代末期の文久年間(1861~1864年)に建てられた石倉を復元したもので、当時はプロイセン(現在のドイツ)の商社もここで商いを行っており、坂本龍馬も長崎で購入したライフル銃を保管していたと伝えられています。 |
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旧長崎内外クラブ 明治32年(1899年)にトーマス・グラバーの息子で、太平洋戦争終戦直後に、非業の死を遂げた倉場富三郎、横山寅一郎、荘田平五郎等の発起によって、長崎における外国人と日本人の社交場として設立された、「長崎内外倶楽部」があった建物で、現在の建物は、明治36(1903)年に再建されたものです。 |
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ぶどう棚とキャピタン橋 寛政10年(1798年)に発生した、出島の大火前後に描かれた「出島」の絵図をもとに造られたもので、絵図では、橋の下にある用水池の水を、菜園にまく様子や、葡萄棚の上に造られた「涼み処」が描かれているという。 |
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水門 現在は、埋め立てが行われていて、門の前には国道499号線が通っており、海岸からは離れていますが、当時は島の西端にあって、荷揚場へ通じる門となり、荷揚げした品物の検査などを行っていたようです。門の入口は二ヶ所あって、輸出する荷物と輸入するに荷物を区別して検査していたようです。 |
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南側護岸石垣 出島の南側の中央部分の石垣で、平成16年から17年(2004~5年)にかけて行われた発掘調査で発見された石垣をもとに、基礎の部分はそのままにして復元されたものです。 |
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長崎駅 JRの長崎本線の駅で、現在の駅は平成12年(2000年)に建てられた4代目の駅で、多目的広場と複合ビル、ホテルが一体化されています。 写真は駅前の広場から撮ったものですが、この下にある市電の停留所(長崎電気鉄道の長崎駅前電停)に行くには、歩道橋を渡らなければ行くことができません。 長崎の街歩きをするので滞在中は、市電をよく利用しましたが、停留所に行くために歩道橋を利用するという箇所が結構ありました。エレベータもエスカレーターもほとんどついていませんが、バリアフリーにするということはあまり考えていないのでしょうか。 |
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稲佐山展望台から見る長崎の夜景 長崎の夜景は、「日本三大夜景」のひとつに数えられていますが、2012年に開かれた「夜景サミット2012 in 長崎」において、モナコ、香港とともに「世界新三大夜景」のひとつに選ばれています。 |
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