長崎街歩きその3    
  
 
   


思案橋跡の碑

『思案橋ブルース』という歌の題名にもなった思案橋は、かつて玉帯川に架けられていた橋で、近くにある丸山遊郭を訪れた人が、「行こうか戻ろか」思案していたことから名付けられたといわれています。
最初に架けられたのは天正20年(1592年)とのことで、当時は川口橋、黒川橋と呼ばれたこともあったようです。
橋は土橋から木橋になっていましたが、火災で焼けたのちに石橋となりましたが、道路拡張のため川は暗渠となり、現在はその親柱が交差点に残されているだけとなっています。

(所在地:長崎市油屋町1)
 
      


高島秋帆旧宅跡

寛政10年(1798年)に、長崎町年寄りの家に生まれた高島秋帆は、父のあとを継いで、長崎会所調役頭取となり、西洋と日本の砲術に大きな差があるのを知って、洋式砲術を出島のオランダ人より学びました。
秋帆は天保5年(1834年)に高島流砲術を完成、阿片戦争で清国が英国に敗れたのを知った後には、幕府に火砲の近代化を訴える上申書を提出。天保12年(184年1)にはその技術を用いて、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を、武蔵野国徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で行いました。
これにより秋帆は、幕府より「砲術の専門家」として重用されることになりましたが、天保13年(1842年)には、蘭学嫌いの鳥居庸蔵や老中水野忠邦たちより、「謀反の恐れあり」あるいは「長崎会所の乱脈経理」あるいは「密貿易をしている」などとの疑いをかけられ逮捕・投獄されました。(逮捕になる要因には諸説あるようです。)
嘉永6年(1853年)に浦賀にペリーが来航すると、社会情勢の変化により赦免されて出獄し、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出し、幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力し、慶応2年(1866年)に69歳で亡くなりました。

この旧宅は、秋帆の父が建てた別邸で、「雨声楼(うせいろう)」或は「齢松軒(れいしょうけん)」と呼ばれたところで、ここで秋帆は砲術の練習を行っていました。

(所在地:長崎市東小島町5-38)
   
 
     
   
旧宅跡には砲術の練習場もあったことから、屋敷の周囲は堅固な石垣で囲われています。庭の片隅には当時の砲弾の跡が残る砲痕石(上右の写真)があります。  
     
   
原爆で破壊された雨声楼跡(上左)と、長崎最古といわれる石倉(上右)は倉庫或は煙硝倉として用いられていました。  
     


「長崎茂木街道ここに始まる」の碑

茂木街道は、江戸時代において長崎の主要路であったようで、ここ正覚寺そばが起点となって、茂木港を経て船で南は薩摩、東に天草、そして陸路では西に島原へとつながっていたようです。
   
     


正覚寺

茂木街道の起点傍にある正覚寺、正式には光寿山正覚寺といい、浄土真宗のお寺で、慶長9年(1604年)に、現在の地にほど近い鍛冶屋町付近で、道智の開基によって創建されました。
創建当時の長崎は、キリシタン全盛とのことで、仏教徒への迫害が多く布教活動がままならなかった中で布教に携わり、寺が放火され全焼するといった事態も発生、寺の再建は伊良林郷(現・浄安寺付近)で行われました。
キリシタン禁制後には、幕府より仏教の布教活動に対しての恩賞があったといわれています。
現在の地に移ったのは延宝7年(1676年)で、一時期長崎奉行所も置かれていました。

(所在地:長崎市東小島町2-6)
   
 
     


丸山公園の坂本龍馬像

長崎の丸山は、江戸時代には、江戸の吉原、京都の島原とともに三大遊郭とうたわれたところでした。昭和33年(1958年)に売春防止法の施行により廃止)
特に幕末の頃は、外国人を対象とした遊郭としては唯一の花街で、遊女たちが出島や唐人屋敷に出入りできるところでした。
坂本龍馬も勝海舟たちとここ丸山をよく訪れていたとのことで、銅像が建てられたとのことですが、建立にあたっては賛否両論あったようです。
 
(所在地:長崎市丸山町1-34)
   

丸山町交番

丸山公園そばにある長崎警察署の丸山町交番ですが、がっしりした石造りのいかにも古そうな建物です。
何時頃建てられたか、ネットで調べましたけど出てきません。

(所在地:長崎市丸山町1-37)
 
 
   


唐人屋敷跡

キリスト教信者ではない中国人たちは長崎の街中で雑居することが許されていましが、元禄時代に入ると密貿易が増えてきたため、一ヶ所に集めることとなり、元禄2年(1689年)に設けられたのがこの唐人屋敷です。
唐人屋敷は、天明3年(1783年)の大火でその殆どを焼失、以後各自で住まいを構えることが認められるようになりました。
現在は、明治期に修復された土神堂、観音堂、天后堂などが残されています。
写真は、籠町に残る唐人屋敷跡の碑と唐人屋敷通りです。

(所在地:長崎市籠町)
   
 
   
 

土神(どじん)堂

唐人屋敷ができたのちの元禄4年(1691年)に、唐人の船主たちの願いで建てられたものですが、天明の大火で焼失。その再建され、修復も生田碑が行われましたが、原爆の被害を受けたことから解体され、石殿だけ残されていましたが、昭和52年(1977年)に再建されたのです。

 ※ 土神とは、大辞林によると「陰陽道で土をつかさどる遊行神で、春は竈に、夏は門に、秋は井戸に、冬は庭におり、その期間にその場所を犯すとたたりがあるといわれている。」

(所在地:長崎市館内町16-17)
 
     
 

天后堂

文政年間の1820年頃に発刊された長崎名勝図絵によると、天文元年(1736年)に、天后聖母(道教の女神「媽祖」 の別名)を祀り、航海の安全祈願するために建立したのがはじまりとされています。
現在の建物は明治39年(1906年)に改築されています。

(所在地:長崎市館内町18-5)
 
      


観音堂

天后堂から4分ほど離れた住宅街に観音堂はありますが、天文2年(1737年)に創建されましたが、天明の大火火で焼失し、天明7年(1787年)に再建されており、大正時代に入って、この地に住んでいた中国人によって改築されています。
観音堂のある場所は緑ケ丘保育所のあるところですので、日によって機門扉が閉じられているかもしれません。

(所在地:長崎市館内町5-14)
 
     


新地中華街

新地町にある長崎新地中華街は、横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街のひとつで、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねています。新地街には新地街には青龍門(東門)、白虎門(西門)、朱雀門(南門)そして玄武門(北門)と4つの門が設けられています。

 
銅座川に架かる新地橋
 
朱雀門
 
玄武門
 
     


俵物役所跡の碑・対馬藩蔵屋敷跡・長崎商工会議所発祥の地碑

俵物役所跡の碑
市電の築町停留所傍に建てられたこの碑は、江戸時代に中国との貿易において重要な輸出品となっていた俵物(ひょうものと読み、煎海鼠、鱶鰭、干し鮑など)を中心に収集、加工していたところです。当初は俵物請負方が俵物会所を運営していましたが、延享2年(1745年)に官営の役所に改められて運営されていました。
役所は、安政の開国により貿易量が減少したため、その機能を一時休止していますが、文久年間に産物会所として再開されています。
対馬藩蔵屋敷跡
寛永16年(1639年)の第5次鎖国令により入港を禁止されていたポルトガル船が、正保4年(1647年)に通商の再開を求めて来航しましたが、幕府はこれを拒否し、西国各藩に長崎警護を命じました。これにより永木の町には各藩が蔵屋敷を設置し、藩の産物を貯蔵販売するほか長崎奉行所と連携して警護にあたっていましたが、この場所は対馬藩の蔵屋敷が置かれていたところです。
長崎商工会議所発祥の地
明治12年(1879年)に、現在の商工会議所の前身となる長崎商法会議所が設置されたところで、昭和28年(1953年)に現在の組織に改編されています。

(所在地:長崎市銅座町1)
   
     

出島和蘭商館跡

「第1次鎖国令」が出された寛永10年(1633年)の翌年に、入港してくるポルトガル人を管理するため、幕府は当時の費用で約4000両(現在の貨幣価値で約4億円)をかけて、長崎に出島の建設を開始、出島の商人も費用を負担して約2年で完成し、出島は日本で唯一の対外貿易港となりました。
寛永14年(1637年)に発生した島原の乱を鎮圧した幕府は、キリシタン弾圧を強めるとともに、カトリックであるポルトガルの入港を禁止。
これにより平戸に商館をおいていたオランダが出島に移り、以後幕末まで、この地が対外貿易港そして西洋の文化の導入地として貴重な役目を果たしていました。
出島は、安政2年(1855年)に出島開放令により、約200年の役目を終えており、その後の埋め立てにより島ではなくなりましたが、現在は建物を含めての復元作業が行われています。

(所在地:長崎市出島町6-1)
 
 
 
2017年に、130年ぶりに復元された表門橋
 
     

一番船船頭部屋(1階は倉庫となっており、2階は船長や商館員が住んでいました。)
 
ヘトル部屋
 
     

和蘭商館長(カピタン)が住んでいたカピタン部屋
 
メイン道路(両側には商館員の部屋や蔵が建ち並んでいます。)
 
     
  旧出島神学校
明治11年(1878)に建てられた、現存する日本最古のプロテスタント神学校で、現在は1階に売店や休憩室があり、2階は会議室や図書室となっています。
 
     
   
15分の1に縮小された「ミニ出島」が造られており、 当時の出島の様子を偲ぶことができます。  
     
  旧石倉

江戸時代末期の文久年間(1861~1864年)に建てられた石倉を復元したもので、当時はプロイセン(現在のドイツ)の商社もここで商いを行っており、坂本龍馬も長崎で購入したライフル銃を保管していたと伝えられています。
 
        
旧長崎内外クラブ

明治32年(1899年)にトーマス・グラバーの息子で、太平洋戦争終戦直後に、非業の死を遂げた倉場富三郎、横山寅一郎、荘田平五郎等の発起によって、長崎における外国人と日本人の社交場として設立された、「長崎内外倶楽部」があった建物で、現在の建物は、明治36(1903)年に再建されたものです。

 
 
  ケンペルとシュベンリーの記念碑

文政6年(1823年)に出島の商館医として渡来したシーボルトが、元禄3年(1690年)に渡来した商館医ケンペル(エンゲルベルト・ケンペル)、安永4年(1775年)に渡来したツュンベリー (カール・ペーター・ツュンベリー) の功績をたたえて、出島の花畑に文政9年(1826年)に設けたものです。
碑は一時長崎公園に移設されていましたが、昭和31年出島の植物園が整備されたことによってこの地に戻りました。
碑にはラテン語で「ケンペルよ、ツュンベリーよ、見られよ!ここに君らの植物、年ごとに緑そい、花咲きいでて、植えたる主をしのびつつ愛の花輪をささぐるを。ドクター・フォン・シーボルト」と刻まれているとのことですが、古い碑ですので文字がかすれだしています。
 
 
   
  バドミントンン伝来の地碑

バドミントンの発祥については諸説あるようで、19世紀のはじめにイギリスの植民地であったインドのプーナでの遊びを、19世紀末ごろにイギリスに持ち帰ったという説と、プーナより伝わる前の1870年代には、イギリスにバトルドア・アンド・シャトルコックという遊びがあったともいわれています。
日本にはここ出島で、和蘭商館員の子供たちが、バドミントンに似た遊びをしている絵が「長崎阿蘭陀屋敷絵図」に描かれるいるとのことで、この碑が建てられたようです。

但し、Wikipediaで調べると、大正10年(1921)に横浜YМCAの体育主事がアメリカより用具を送られたのが初めとされています。
  オランダ石門

オランダ商館が、平戸から出島に移った時に設けた門といわれているようですが、門の手前の木標には、「オランダ大使館提供」と記されているので違うのかも知れません。
 
   
ぶどう棚とキャピタン橋

寛政10年(1798年)に発生した、出島の大火前後に描かれた「出島」の絵図をもとに造られたもので、絵図では、橋の下にある用水池の水を、菜園にまく様子や、葡萄棚の上に造られた「涼み処」が描かれているという。
 
   
水門

現在は、埋め立てが行われていて、門の前には国道499号線が通っており、海岸からは離れていますが、当時は島の西端にあって、荷揚場へ通じる門となり、荷揚げした品物の検査などを行っていたようです。門の入口は二ヶ所あって、輸出する荷物と輸入するに荷物を区別して検査していたようです。
 
   
  南側護岸石垣

出島の南側の中央部分の石垣で、平成16年から17年(2004~5年)にかけて行われた発掘調査で発見された石垣をもとに、基礎の部分はそのままにして復元されたものです。
 
       
長崎駅

JRの長崎本線の駅で、現在の駅は平成12年(2000年)に建てられた4代目の駅で、多目的広場と複合ビル、ホテルが一体化されています。
写真は駅前の広場から撮ったものですが、この下にある市電の停留所(長崎電気鉄道の長崎駅前電停)に行くには、歩道橋を渡らなければ行くことができません。
長崎の街歩きをするので滞在中は、市電をよく利用しましたが、停留所に行くために歩道橋を利用するという箇所が結構ありました。エレベータもエスカレーターもほとんどついていませんが、バリアフリーにするということはあまり考えていないのでしょうか。
 
   
 
稲佐山展望台から見る長崎の夜景
長崎の夜景は、「日本三大夜景」のひとつに数えられていますが、2012年に開かれた「夜景サミット2012 in 長崎」において、モナコ、香港とともに「世界新三大夜景」のひとつに選ばれています。
 
   
   
   
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