長崎街歩き その1 2018年3月29日から3日間、C社の長崎フリープランを利用して、長崎の街歩きをしてみました。北部の浦上地区から街歩きスタートです。 |
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サンタ・クララ記念碑 浦上街道の大橋傍にあるこの記念碑は昭和40(1965)年に、サンタ・クララ教会跡に設けられたものです。 慶長8(1603)年に建てられたサンタ・クララ教会は、イスパニア人たちによって建てられた教会で、浦上地区では唯一つの教会でした。 教会は徳川幕府のキリシタン禁教令により破壊されましたが、教会で働いていた孫右衛門が、帳方(責任者)・水方(洗礼を授ける役)・聞役(指令伝達役)などの潜伏キリシタンの地下組織を作って信仰を固め、毎年夏には盆踊りと称して大勢の信者が集まったといわれており、約250年の間祈りの場としていました。 (所在地:長崎市大橋町1) |
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如己堂 |
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カトリック浦上教会 江戸時代に禁教であったキリスト教の信者が多かった浦上地区は。「浦上崩れ」と呼ばれる隠れキリシタンの摘発が数度にわたって行われたところです。 幕末の慶応3(1867)年には、隠れキリシタンとして信仰を表明した多くの村民が幕府の命によって捕縛され、厳しい拷問を受けましたが、改宗する意思もみじんもなく、捕縛された状態が続く中で幕府は瓦解しました。事件を引き継いだ明治政府は、徳川幕府と同様にキリスト教禁止を維持して、欧米政府の反対を押し切って弾圧を行い、多くの信徒が各地に配流されるという事件が起きています。(浦上四番崩れ) 政府が禁制を解消した後の明治12(1879)年に、残っていた信徒たちが小聖堂を築いたのが浦上教会(浦上天主堂とも呼ばれています。)の発端で、明治28(1895)年に大聖堂の建設が開始され、19年後の大正3(1914)年に当時としては東洋一と呼ばれた教会が完成しました。 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年8月9日の米軍の長崎への原子爆弾投下では、爆心地が至近距離にあったため、8月15日の聖母被昇天の祝日を控えて、ゆるしの秘跡(告解)のため多くの信者が来ていましたが、跡形もなく崩れた教会とともに全員亡くなられました。 廃墟となった教会の瓦礫は、一部を残して撤去されで再建を開始、昭和34(1959)年に旧天主堂の外観を模して完成しました。 (所在地:長崎市本尾町1-79) |
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原爆により落下した鐘楼の一部が保存展示されています。 | 被爆当時の石垣が修復して残されています。 | ||||||||||||||
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拷問石 天主堂の前の広場の一角におかれたこの石は、浦上四番崩れで山口県萩市に配流された信徒達が正座させられ棄教を迫られた、花崗岩の庭の飛び石を用いた「拷問石」で、石には十字架が刻まれています。 配流された信者は、葦簀が敷かれたこの石の上に座らされて、拷問を受けたとのことです。 中でも苛烈を極めたのが、後に「寒ざらしのツル」と呼ばれる22歳の岩崎ツルへの拷問で、寒中に腰巻1枚の裸で正座させられ、夜は裸のまま牢屋に戻り、翌日また同じ拷問を受けるというひどさであったといいます。それでもツルは改宗せず、明治6(1873)年に浦上に戻った後に、大正14(1925)年に亡くなるまで生涯を伝道に捧げました。 この拷問石は、当時牢番長であった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その後子孫が保管していましたが、萩教会を経て平成20(2008)年に、、「旅」を物語る遺品として浦上教会に譲渡されたものです。 |
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平和公園 平和公園は、長昭和30(1955)年に悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた設けられた公園で、北側から「平和祈念像地区・願いのゾーン」、中央に「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」そして南側に「長崎原爆資料館地区・学びのゾーン」の三つが設けられており、これに付属してスポーツのゾーンと広場のゾーンがあります。 (所在地:長崎市松山町9) |
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平和祈念像遠景(芝生のある付近は浦上刑務支所となっていました。) |
平和の泉 |
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長崎刑務所浦上刑務支所跡 願いのゾーンにあり、当時は爆心地から約100mのところに位置して建てられており、敷地内にあった13の庁舎と職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人の134人がいましたが、全員亡くなられています。 遺構は当時のままではなく、見学用に並べ替えたものとされています。 また、遺構を残すにあたっては賛否両論が出ていましたが、長崎市が被爆遺構に関する基準を定めて実施されています。 |
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爆心地公園 願いのゾーンの南側にあり、「祈りのゾーン」として被爆の史実を伝えるとともに、亡くなられた方の冥福を祷るよう整備されています。 |
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爆心地公園には、多くの慰霊碑や記念碑、句碑などが建立されています。 |
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平和の母子像 |
はぐくむ(左)とあの夏の日(右)碑 |
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爆心地公園から階段を上って学びのゾーンに入ります。 | |||||||||||||||
原爆資料館傍にある展望台には被爆直後の爆心地一体の写真が飾られています。 |
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展望台から見た現在の爆心地一体の写真ですが、左は爆心地公園、右は平和公園方向を撮っていますが、建物が多くわずかに平和祈念像が望めるだけとなっています。 | |||||||||||||||
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