長崎街歩き その1

2018年3月29日から3日間、C社の長崎フリープランを利用して、長崎の街歩きをしてみました。北部の浦上地区から街歩きスタートです。
 
 
 
   


サンタ・クララ記念碑

浦上街道の大橋傍にあるこの記念碑は昭和40(1965)年に、サンタ・クララ教会跡に設けられたものです。
慶長8(1603)年に建てられたサンタ・クララ教会は、イスパニア人たちによって建てられた教会で、浦上地区では唯一つの教会でした。
教会は徳川幕府のキリシタン禁教令により破壊されましたが、教会で働いていた孫右衛門が、帳方(責任者)・水方(洗礼を授ける役)・聞役(指令伝達役)などの潜伏キリシタンの地下組織を作って信仰を固め、毎年夏には盆踊りと称して大勢の信者が集まったといわれており、約250年の間祈りの場としていました。

(所在地:長崎市大橋町1)
   
     

永井隆記念館

医学博士であり敬虔なクリスチャンであった永井隆博士は、長年の放射線医療に取り組んでいた結果、白血病を患い余命数年の宣告を受けていました。
昭和20(1945)年8月9日の長崎への原爆投下により、愛妻を亡くし博士自らも被爆してもなお原子病の研究を続けました。
寝たきりとなってからは、如己堂と名付けた二畳一間の部屋で子供たちと住み、多くの著書を発表、昭和26(1951)年4月25日に43歳で亡くなりました。
記念館は、永井博士の遺品や関連する書画や写真が展示されています。
また、この地は長い間弾圧を受けてきた、浦上地域の潜伏キリシタンの組織を指導してきた帳方の屋敷があったところで、、記念館の前にその石碑が建てられています、(右の写真)

(所在地:長崎市上野町22-6)
   
 
     

如己堂
 
  永井隆博士の句碑
記念館前にある句碑には、「玉の緒の 命の限り吾はゆく 寂かなる真理探求の道」と刻まれています。
 
   


カトリック浦上教会

江戸時代に禁教であったキリスト教の信者が多かった浦上地区は。「浦上崩れ」と呼ばれる隠れキリシタンの摘発が数度にわたって行われたところです。
幕末の慶応3(1867)年には、隠れキリシタンとして信仰を表明した多くの村民が幕府の命によって捕縛され、厳しい拷問を受けましたが、改宗する意思もみじんもなく、捕縛された状態が続く中で幕府は瓦解しました。事件を引き継いだ明治政府は、徳川幕府と同様にキリスト教禁止を維持して、欧米政府の反対を押し切って弾圧を行い、多くの信徒が各地に配流されるという事件が起きています。(浦上四番崩れ)
政府が禁制を解消した後の明治12(1879)年に、残っていた信徒たちが小聖堂を築いたのが浦上教会(浦上天主堂とも呼ばれています。)の発端で、明治28(1895)年に大聖堂の建設が開始され、19年後の大正3(1914)年に当時としては東洋一と呼ばれた教会が完成しました。
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年8月9日の米軍の長崎への原子爆弾投下では、爆心地が至近距離にあったため、8月15日の聖母被昇天の祝日を控えて、ゆるしの秘跡(告解)のため多くの信者が来ていましたが、跡形もなく崩れた教会とともに全員亡くなられました。
廃墟となった教会の瓦礫は、一部を残して撤去されで再建を開始、昭和34(1959)年に旧天主堂の外観を模して完成しました。

(所在地:長崎市本尾町1-79)
   
     
   
原爆により落下した鐘楼の一部が保存展示されています。   被爆当時の石垣が修復して残されています。  
      
  天主堂の前には旧天主堂の遺構として建物の壁や石像が置かれていますが、爆風で壊れたのでしょうか首の部分がとれた石像が何体もあります。
天主堂内の見学はできますが、内部は「撮影禁止」となっています。長崎ではいくつか教会を見て回りましたが、その殆どが撮影禁止です。
 
 
     
 
日本の信徒発見150周年記念『旅』殉教への門出のレリーフと「悲しみのマリア像」(左の写真)

元治2(1865)年に完成したばかりの大浦天主堂で、信徒たちがクリスチャンであることを告白した日を「日本の信徒発見」と位置づけ、150年目にあたる平成27(2015)年に行われたミサの際に設けられたレリーフ像で、左側の「悲しみのマリア像」は被爆により指先が欠け落ちています。

ヨハネ・パウロ2世の胸像(右の写真)

パウロ2世は昭和56(1981)年に当教会を訪れ、ミサを行っています。
 
 
     
  拷問石

天主堂の前の広場の一角におかれたこの石は、浦上四番崩れで山口県萩市に配流された信徒達が正座させられ棄教を迫られた、花崗岩の庭の飛び石を用いた「拷問石」で、石には十字架が刻まれています。
配流された信者は、葦簀が敷かれたこの石の上に座らされて、拷問を受けたとのことです。
中でも苛烈を極めたのが、後に「寒ざらしのツル」と呼ばれる22歳の岩崎ツルへの拷問で、寒中に腰巻1枚の裸で正座させられ、夜は裸のまま牢屋に戻り、翌日また同じ拷問を受けるというひどさであったといいます。それでもツルは改宗せず、明治6(1873)年に浦上に戻った後に、大正14(1925)年に亡くなるまで生涯を伝道に捧げました。
この拷問石は、当時牢番長であった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その後子孫が保管していましたが、萩教会を経て平成20(2008)年に、、「旅」を物語る遺品として浦上教会に譲渡されたものです。
 
     
  浦上四番崩れの分謫記念碑

分謫(ぶんたく)とは、分散させて流罪にすることで、碑の正面には「明治元年より明治6年までに宗教のために諸国にあづけられたる浦上公教信者の数と其国別とを記念し茲にしるす」
と刻まれています。
浦上四番崩れでは、明治元(1868)年から明治6(1873)年もの間に、国内の津和野、萩をはじめ、金沢または名古屋などの各地に、総勢3394名とも3447名といわれる信者が配流され、うち562名とも662名ともいわれる信者がこの地に戻ることなく亡くなられています。
    信仰之礎碑

浦上四番崩れにより各地に配流された信者は6年もの間の苦難を終えてこの地に戻りましたが、この碑は、公教復活50周年を記念して大正9(1920)年に建立されたものです。
 
    
平和公園

平和公園は、長昭和30(1955)年に悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた設けられた公園で、北側から「平和祈念像地区・願いのゾーン」、中央に「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」そして南側に「長崎原爆資料館地区・学びのゾーン」の三つが設けられており、これに付属してスポーツのゾーンと広場のゾーンがあります。


(所在地:長崎市松山町9)
 
   
折鶴の塔   平和祈念像   長崎の鐘
 
     

        平和祈念像遠景(芝生のある付近は浦上刑務支所となっていました。)
 
                           平和の泉
 
     
 

長崎刑務所浦上刑務支所跡

願いのゾーンにあり、当時は爆心地から約100mのところに位置して建てられており、敷地内にあった13の庁舎と職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人の134人がいましたが、全員亡くなられています。
遺構は当時のままではなく、見学用に並べ替えたものとされています。
また、遺構を残すにあたっては賛否両論が出ていましたが、長崎市が被爆遺構に関する基準を定めて実施されています。
 
     
爆心地公園

願いのゾーンの南側にあり、「祈りのゾーン」として被爆の史実を伝えるとともに、亡くなられた方の冥福を祷るよう整備されています。
 
 


原子爆弾落下中心地碑

昭和20年8月9日午前11時2分に、この地の上空約500mでB29ボックスカーより投下された原子爆弾ファットマンは、当初は長崎市の中心部が目標でしたが、視界不良により松山町171番地(現 松山町5番地)に落とされ、7万3884人の市民が亡くなられ、負傷者7万4909人、罹災人員12万820人、罹災戸数1万8409戸という被害を出しました。

(所在地:長崎市松山町6)
   

浦上天主堂の遺壁

爆心地から500m北側にある浦上天主堂は、原子爆弾の投下により、その一部を残すだけに破壊されましたが、教会再建のためにその遺壁をこの地に移したものです。
遺壁は教会の南側の一部で、壁の上部にある石像は、フランシスコ・ザビエルとその使徒の像です。


(所在地:長崎市松山町6)
 
 
     
 

被爆当時の地層

爆心地公園の南側の階段の下には被爆当時の地表が保存されています。保存されている地表面はガラスで覆われており、薄暗いので少し見難くなっています。
当時松山町では300世帯、1600人の人が暮らしていましたが、防空壕に入って避難していた9歳の少女一人を残して全員が即死されたということです。
保存されている地層には、茶碗やお皿、屋根瓦などが散乱しており、爆発のもの凄さを物語っています。
 
 
     
爆心地公園には、多くの慰霊碑や記念碑、句碑などが建立されています。
 
 
   

「長崎誓いの火」の灯火台と「さくらの記念碑」

「長崎誓いの火」の灯火台は、長崎市民の手によって昭和62(1987)年に建てられ、ギリシャ政府の特別な許可により、オリンピアの丘で採火された火を、「平和の象徴」として、毎月9日に点火しています。
「さくらの記念碑」には、「被爆地 長崎とともに 生きた桜、明日に幸あれ」と刻まれており、平成14(2002)年に復興を見守り続けてきた桜に、平和への願いを込めて市民によって建てられたものです。
   

平和の願いを後世への碑

長崎原爆青年乙女の会によって、平成8(1996)年にたてられたもので、碑には「戦争は国を亡ぼす 核兵器は地球をなくす 世界を担う若者よ 未来へ平和をつないでほしい」と刻まれています。
 
     

                          平和の母子像
 
                    はぐくむ(左)とあの夏の日(右)碑
 
     

平和を祈る子の像

 
 
松尾あつゆき句碑
碑には「
降伏の みことのり 妻をやく火 いまぞ熾りつつ」と刻まれています。
 
隈治人の句碑
碑には「雲が首灼く浦上 花をもっと蒔こう」と刻まれています。
 
不戦平和の塔

  
 
     
爆心地公園から階段を上って学びのゾーンに入ります。    
     

原爆資料館傍にある展望台には被爆直後の爆心地一体の写真が飾られています。
 
     
   
展望台から見た現在の爆心地一体の写真ですが、左は爆心地公園、右は平和公園方向を撮っていますが、建物が多くわずかに平和祈念像が望めるだけとなっています。  
     
 

長崎市平和会館

昭和56(1981)年に建てられたもので、地下1階には長崎市歴史民俗資料館があり、1階には長崎市野口彌太郎記念美術館が、上層階は平和会館ホールとなっていて、コンサートや講演会などに利用されています。
建物の前には「原爆受難教え子と教師の像」があります。

(所在地:長崎市平野町7-8)
 
 
     


山王神社の一本柱鳥居

山王神社は、浦上街道沿いにある明治元(1868)年創建の神社で、爆心地からは900mほどのところに位置しています。
神社の参道には一の鳥居から四の鳥居まで四つの鳥居がありましたが、原爆の爆風により一の鳥居と二の鳥居の片側だけ残して破壊されました。その後一の鳥居は交通事故により破壊されており、現在残っているのは写真のように二の鳥居の右半分だけで、「山王神社の一本柱鳥居」と呼ばれています。
爆風で飛ばされた二の鳥居の残骸は右下の写真のように保存されています。

(所在地:長崎市坂本町2-6-56)
   
 
     
   
     
 

大クス

神社の境内にある大きなクスノキは、樹齢400年から500年と推定され、幹回りが約6.6mある大きなクスノキです。
原爆が投下された際には、爆風により上部が吹き飛ばされ、一時立ち枯れ状態となりましたがその後樹勢を取り戻しており、その後の樹木医の調査によって、幹の中の空洞からは数多くの石が発見されました。
右上の写真の洞には発見された小石が納められており、右下の写真のような大きな石まで発見されています。
   
 
 
        
 
坂本国際墓地


坂本国際墓地は明治21(1888)年に外人専用の墓地として設けられたもので、多くの外国人の墓地となっており、トーマス・グラバーとその家族の墓があます。(右)
道路を挟んだ反対側には、永井隆博士の墓もあります。(右端)


(所在地:長崎市坂本町1-26)

   
 
        
     
  御衣黄(きょいこう)桜
坂本国際墓地近くの時計店のウィンドーにおかれていた時計ですが、原爆投下の時間11時2分で止まったままです。 この写真は、坂本国際墓地で出会ったNさんよりお借りしたもので、長崎地方法務局前にある坂本龍馬の奥さんであったお龍さんの像です。
この地は、坂本龍馬の理解者であった小曾根乾堂の屋敷があったところです。
  芍薬
 
        
        
        
        
        
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