長浜街歩き(2020.10.13撮影)

2010年の8月に一度訪れたことのある長浜、この時は小学生の社会見学とかち合ったため、数枚ほど長浜城の写真を撮っただけで引き上げました。今回は長浜城だけでなく街中もじっくり歩いてみました。
 
 
   
  長浜駅びわ湖口
駅についてコインロッカーに荷物を預けて街歩き開始です。びわ湖口のエスカレータを降りたところに大きな秀吉の像がある絵が掲げられています。
 
 
 
 
 
   
  長浜城の推定復元図
長浜城は、織田信長から浅井長町攻めの功により、その旧領を拝領した羽柴(豊臣)秀吉によって、当時今浜と呼ばれていたこの地に天正元年(1573年)築城されたもので、城は琵琶湖の西側に建てられており、湖に面したところに設けられた水門から船が出入りできる水城となっていました。
 
 
 



御馬屋跡の碑

長浜駅から長浜城址のある豊公園に向かって歩き、公園町南の交差点の角にある石碑で、この付近に御馬屋(厩)が置かれていました。

所在地:長浜市公園町8-47
 
      



内堀跡の碑と長浜城天守閣

公園町南の交差点から公園内に入ると右手方向に天守閣が見えてきます。
手前には内堀跡の碑が建てられています。
推定復元図によると水城であった長浜城は、城の西側半分は琵琶湖に面していて天然の広大な堀となっており、東側に内堀と外堀を設けて築城されていました。
 
     
 
   
  本丸橋跡
本丸橋は明治42年(1909年)に豊公園として整備されたときに木橋で架けられ、その後昭和12年(1937年)に石は死にかけなおされたとなっています。当時の橋がどのような構造であったかわかりませんが、現在のような短い橋ではなかったと推測されます。

 
 
 
 
豊臣秀吉像(上左)と天守閣跡の碑(上右)
いずれも豊か公園内にありますが、現在の長浜城歴史博物館がある位置より西北側にあります。
 



「おかね」さんの碑

碑には、天正2年(1574年)ごろに、築城に際して強固な城を築くため人柱が必要であるとのことで、当時長浜市の美女と評判であった「おかね」さんが選ばれ、彼女はけなげにも湖北一円の繁栄を願って、自ら命を捧げたとあります。
      
 
 



太閤井戸跡

長浜城築城の際に、秀吉の命により掘られた井戸と伝わっているもので、数少ない長浜城の遺構です。
湖水が渇水しているときは湖畔にあるようになりますが、渇水していないと湖の中に碑だけがある形となります。
      
 
   
  長浜城石垣出土地の碑
碑の脇にある説明板によると、昭和44年(1969年)に、湖岸の埋め立て工事を行う際に水底調査を行った結果、石垣の根石と思われる巨石が30数個約30mにわたって整然と列をなしていたということですが、どうやら取り出すことなくそのままとなってしまったようです。
貴重な長浜城の遺構ですので、どうせならこの近くに置かれていればよいものをと思いましたけど・・・

 
 
 
 


旧長浜領境界碑

長浜の町は、特別に長浜の街屋敷に対して年貢米300石の納付を免じられました。
この特例は徳川幕府に変わった際も認められ、他の地域と区別するために石碑を町の周りに三十数本設けたといわれています。
現在残っている石碑は十数本のみで、そのうち元の位置にあるのはわずか数本のようです。
設置してから400年以上経過しているため碑に彫られた文字も判読しにくい状態となっていますが、「是より東長浜領 是より南長浜領」とあるようです。
       
 
   
  本丸跡の碑(右)とさくら名所百選の碑(左)
 
 
   
  昭和58年(1983年)に、犬山城や伏見城をモデルにして模擬復元された天守は、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
写真右下にあるのは、湖底に沈んでいた石垣の石で、ここにはタイムカプセルが埋められています。
 
 
   
  模擬天守から見る伊吹山(正面奥)
 
 
 
 
内伊右衛門一豊屋敷跡
戦国時代から江戸時代の初期にかけて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕え、土佐藩初代藩主となった山内一豊、通称や山内伊右衛門が、豊臣秀吉が長浜城主の時代に家臣として仕え400石を与えられており、その屋敷があったところと伝わっています。
 
所在地:長浜市公園町8
 
   
  長浜のシンボルひょうたんのモニュメント
豊臣秀吉の馬印といえば千成瓢箪ですが、町のシンボルとなっており、町のあちこちに瓢箪がモニュメントやマンホールの蓋となっています。
 
 
 
 


秀吉公と石田三成公出逢いの像

長浜駅東口のそばにあるこの像は、長浜城主であった豊臣秀吉が鷹狩りの途中立ち寄った法華寺で、当時寺の小姓をしていた佐吉少年が汗をかいていた秀吉公を見て、大きな茶碗になみなみと注がれたぬるいお茶を差し出しました。
飲み干した秀吉公が「もう一杯」と所望すると、今度は少し熱めのお茶を、茶碗に半分くらい入れて差し出しました。
さらにもう一杯と所望すると、小さな茶碗に熱いお茶を入れて差し出したのとことです。
茶の入れ方一つに気を配る佐吉少年を気に入った秀吉公は彼を召し抱えました。のちに石田三成となる少年でした。
この出逢い話は「三献の茶」として語り継がれているとのことです。


所在地:長浜市北船町2(長浜駅東口)
      
 


北国街道

北国街道は、中山道の鳥居本宿(「とりいもとじゅく」と読み、現在の彦根市鳥居本町)を起点として琵琶湖の東岸沿いに北上し、、長浜、木之元をへて福井県今庄で北陸道と合流し福井へと通じる街道でした。
生憎と説明板が木彫りで造られているため、経年変化で薄れだしており判読が難しくなっていました。
      
 
   
  北国街道 安藤家屋敷
羽柴秀吉により選ばれた長浜町十人衆の筆頭である三年寄を江戸時代を通して勤めた安藤家の商家として明治38年(1905年)に建てられた近代和風建築物で、近代商家の特徴である虫籠窓や紅殻格子などを備えています。
 
所在地:長浜市元浜町8-24
 
 
   
  黒壁1号館(黒壁ガラス館)
北国街道と大手門通りが交差する「札ノ辻」に、明治32年(1899年)に建てられた、「黒壁銀行」の愛称で親しまれた旧第百三十銀行の長浜支店の取り壊しの話が浮上し、長浜旧市街の古建築物の保存と町の再生のために第三セクター「黒壁」を発足し、同時期に建てられた30棟もの古建築物の再生が行われ「黒壁スクエア」と呼ばれるほどに活性化されました。
この現況を見るため日本各地から視察する人が訪れているとのことです。(電柱や電線がないといいんですけどね・・・・・)
   
所在地:長浜市元浜町12-38
 
 
   
  大手門通りの両側には黒壁の家が続いています。
 
 
   
  武者隠れ道
北国街道を歩いていると「武者隠れ道」の表示が。なんでも当時家屋敷の境界が不規則に出たり入ったりしていて、戦の時に身を隠すことができたとの言い伝えがあり、このような名がついたとのことです。
 
 
 
 


増田長盛屋敷跡

増田長盛は、豊臣秀吉の五奉行のうち第三席となる土木担当の奉行を務め、大和郡山藩主となっていましたが、秀吉没後は豊臣方、徳川方と従う姿勢が一定せず豊臣家を滅ぼした元凶とと語り継がれています。
所在地:浜市朝日町2-13
     
 


子供歌舞伎の像

天正年間(1573~93年)に城主であった豊臣秀吉が男子出生を祝って下賜した砂金を元手に移動式屋台である曳山を造り曳き回した曳山祭で、子供歌舞伎が催されたとあり,現在でも毎年4月の半ばに開催されています。
      
 
   
  舟板べい
下舟町を歩いていると古い板塀の家並みがありました。調べるとどうやら「舟板塀通り」と呼ぶようですが、古い舟板を建物の塀に用いているようです。
 
 
   
  吉川本陣跡
吉川本陣は、長浜宿の長浜町十人衆の筆頭である三年寄筆頭であった吉川三左衛門本陣で、幕末まで代々その名を継いで長浜の基盤を作り上げました。建屋の跡は現在長浜幼稚園となっています。
 

所在地:長浜市朝日町5-14
 
 



長浜タワー

昭和39年(1964年)に地元の資産家が「長浜にも東京タワーのような名物を作りたい」と建てたビルですが、高さは5階建てで屋上に「長浜タワー」と文字の入った鉄塔が立っています。ただし、鉄塔はただの飾りで電波の送受信ができるといった機能は一切持っていません。
現在は老朽化したため建物内部に入ることはできないようです。
また、建物正面には「NAGAHAMA TOWERBILL」と英語表記がありますが、本来は「NAGAHAMA TOWER BUILDING」とすべきところを「BILL」として誤表記しており、、この誤表記がB級スポットらしさの醸成に一役買っているという意見もあるとのことです。
 
所在地:長浜市元浜町7-35
 
      
 
   
  旧開智学校
明治7年(1874年)に町民の寄付によって神戸町(現在の元浜町)に建てられた、現在の長浜小学校の前身となる洋風の木造校舎で、三階建ての屋上に八角形の櫓が載ったデザインです。現在は展示室・会議室として利用されており、国の登録有形文化財となっています。

所在地:長浜市元浜町2-3
 
 
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