旧東海道川崎宿 | ||||||||||
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北野神社 神社の創建年代は不明で、境内にある手水石には「貞享元年」の文字が刻まれていることから江戸時代中期の創建と推定されています。 神社の別称は鳥居横にある石碑に刻まれている「止め天神」で、これは八代将軍徳川吉宗が近くにある柳生家の屋敷を訪れたときに、落馬しそうになってこれを止めたことから、「落馬止め天神」と称されるようになったと伝えられていて、庶民は単に「止め天神」と呼ぶようになり、神社本来の学問だけでなく、災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願する人が多かったといわれています。 拝殿は太平洋戦争時に被害を受けて焼失していますが、昭和58(1973)年に近隣住民の協力を得て再建されており、近年では、受験や選挙の際に訪れる人たちも多く訪れているようです。 (所在地:大田区仲六郷4-29) |
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千年石と万年石 石の中央にある由来記には 江戸時代、天神さんの祭りの時に氏子達が力自慢のため担いだり、抱えていた力石を、村人が相談の上、自分達の一生が達者で働けるようにと願って、千年石を「鶴さん」、万年石を「亀さん」と名づけ老若男女にそれは親しまれました。 天神さんの縁日にはその鶴亀の力石をお互いになで合いそのご利益にすがりました。 “ボケ“ないで生涯を全うしたい人は鶴さん(千年石)亀さん(万年石)の力石にやさしく手をふれて下さい。 と記されています。 |
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江戸名所図会・六郷の渡し 六郷橋にほど近いところにある旭町1丁目公園に置かれているのは、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』の『六郷の渡し』を、後藤伸行が切り絵で表現したものと、六郷の渡しの説明文があります。 (所在地:川崎市川崎区旭町1-8-2) |
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川崎宿 第二京浜国道から旧東海道に入ると川崎宿です。道は無電柱化されており、歩道に設置されているトランスや分電盤を収納する地上装置には、江戸名所図会や東海道五十三次細見図会などが描かれています。 川崎宿は東海道五十三次でで2番目の宿場ですが、当初は品川宿の次の宿場が神奈川宿となっていました。品川から神奈川宿までは片道5里もあり、伝馬の負担が大きいとのことで、元和9(1623)年に設置されたものです。 川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町で構成され、江戸時代の末期で、旅籠が62軒あったほか八百屋、酒屋、駕籠屋、道具屋、髪結床の他に多くの店もあり、川崎大師詣での人も通過することで賑わっていましたが、明治維新後の伝馬・飛脚制の廃止もあり、宿場としての機能を終えました。 |
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川崎稲荷社 現在の神社の鳥居と社殿は昭和26(1951)年頃に再建されたものですが、創建年や由来は、太平洋戦争の際に焼失して不明となっています。 ここでは、当時紀州藩の第五代藩主であった徳川吉宗が、第八代将軍となるため江戸に向かう途中、この境内で休息したという言い伝えが残っています。 (所在地:川崎市川崎区本町2-10-9) |
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田中本陣跡 川崎宿には本陣が三ヶ所置かれていましたが、田中本陣はその中でも一番東側にあって「下の本陣」とも呼ばれていました。 川崎宿ができてから伝馬の役を務める農民たちや問屋場の負担も増え、宿場の廃止を願う人たちも増えていたとのことで、宝永元(1704)年に名主を継いだ田中休愚は幕府に働きかけて、六郷の渡しの権益を川崎宿に移させて、その収益を宿場の運営に充てたほか、救済金を取り付けるなどして川崎宿の再建に大きな役割を果たしました。 休愚はその功績が八代将軍徳川吉宗に認められ、晩年には代官を務めていました。 川崎宿に三ヶ所あった本陣のうち中の本陣と呼ばれた惣兵衛本陣は江戸時代後期に経営が苦しくなって廃業していたこともあり、幕末期には大名家の財政難と参勤交代制の緩和もあって、田中本陣も荒廃しだし、アメリカの駐日総領事ハリスが本陣に泊まらず、川崎宿では評判の万年屋に泊まったとのことです。 (所在地:川崎市川崎区本町1-4-6) |
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旧六郷橋の親柱 大正14(1925)年に多摩川に架けられた、最初の恒久的な六郷橋の川崎市側の親柱です。親柱の脇には欄干も残されています。 (所在地:川崎市川崎区砂子1-4-3 稲毛公園内) |
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稲毛神社 稲毛神社の創建は、社殿によると欽明天皇の時代(6世紀頃)に、武甕槌神を祭神として鎮座したといい長らく勅願所とされていたと伝えられています。当初は祭神の名前から「武甕槌宮(たけみかづきぐう)」と称していましたが、平安時代の末期に当地を領した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」、「五社山王」、「三社宮」などと呼ばれるようになりました。 また一説では、鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿を造営したとあります。 その後江戸時代には幕府より寺領20石を賜り、家康公の江戸入府に際し、天海僧正ご巡見の参拝があって、随神門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。 現在の社名は、明治時代の初めに神仏分離の方針にのっとって、旧地名の武蔵国稲毛庄にちなんで「川崎大神稲毛神社」とし、明治中頃に「稲毛神社」の名が定着したとなっています。 (所在地:川崎市川崎区宮本町7-7) |
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大鳥居と社殿 社殿前にある石造りの大鳥居は、江戸時代末期の古文書『当宿山王宮由来之事』(森家文書)によると、享保3(1718)年に当時の下宿名主田中休愚らによって建立されたとあり、鳥居の台座には旅籠の主や商人の名が刻まれています。鳥居は安政の大地震で倒壊して、嘉永2(1849)年に台座だけをそのままに再建されています。 社殿は、宝永年間に田中休愚 らによって造営されましたが、太平洋戦争時の空襲により焼失し、昭和38(1963)年にコンクリート造りで再建されたものです。 |
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小土呂橋の親柱 現在は川崎駅の南口から扇町迄の県道101号線(扇町川崎停車場線)となっているこの辺りには、江戸時代に開削された「新川堀」が流れており、旧東海道との間に架けられていたのが、石造りの小土呂橋でした。 明治の末期から大正時代にかけて川崎の臨海部には工場が建ち始めて活況を呈しだし、これに伴い付近の道路は混雑を極めて拡張を余儀なくされ、昭和12(1937)年には川は暗渠化され橋の役目を終えました。この碑がある「小土呂橋交差点」や南にある「新川橋交差点」はその名残です。 (所在地:川崎市川崎区小川町14-1) |
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