鶴見と生麦 | ||||||||||
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鶴見神社 鶴見神社は、横浜・川崎間では最古の神社といわれ、7世紀初めの推古天皇の時代に創建されたと伝えられており、古くは杉山大明神と呼ばれていました。現在の社名になったのは、大正9(1920)年のことです。 神社の社殿は、宝暦3(1753)年に再建されましたが、明治44(1911)年に火災のため焼失し、大正4(1915)年に再建されたものです。 (所在地:鶴見区中央1-14-1) |
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富士塚と富士浅間社 |
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總持寺 京浜四大本山のひとつであり、曹洞宗の大本山である總持寺は、正式には諸嶽山總持寺といい、能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)にあった諸嶽観音堂がその前身で、元享2(1322)年に後醍醐天皇より、「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称したものです。 創建時の寺は明治31(1898)年に火災で焼失し、明治41年に現在の地に移転し、旧地の寺院は總持寺祖院と改称されています。 寺の敷地は50万㎡あり、鶴見区の広域避難場所に指定されています。境内には多くの堂宇の他、鶴見大学などの学校施設があります。 (所在地:鶴見区鶴見2-1-1) |
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三松関 参道を歩いて行くとあるのが、寺の総門となる三松関(さんしょうかん)です。門の中央には、總持寺中興の祖といわれる、石川素童禅師揮毫による「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と大書された扁額が掲げられています。 門は、総門としては特異な高麗門の様式で建てられており、国の登録有形文化財となっています。 |
三門 正面に「諸嶽山」と書かれた扁額がある三門は、昭和44(1969)年に鉄筋コンクリート造りで建てられたもので、その大きさは日本一のものです。 |
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香積台 香積台(こうしゃくだい)は寺の総受付となるところで、売店や休憩所もあります。香積の意味は「香気が充満している世界」ということです。(登録有形文化財) |
向唐門 大正14(1925)年に建てられた向唐門(むかいからもん)は、切妻造、檜皮葺の四脚門で、前後に唐破風を付けており、普段は開扉されず、禅師の入山式や特別な行事の際のみに開扉されます。 (登録有形文化財) |
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待鳳館 待鳳館(たいほうかん)は、總持寺の迎賓館となる建物で、大正4(1915)年に建設された尾張徳川家の旧書院を、昭和32(1957)年に移築したものです。 (登録有形文化財) |
大祖堂 一般的には「開山堂」と呼ばれるこの仏殿は、昭和40(1965)年に建てられたもので、高さは36mあり、内部は千畳敷の大建築物です。 |
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仏殿 寺の伽藍の中心部にある仏殿は、大雄宝殿とも呼ばれ、大正4(1915)年に建立されたもので、入母屋造、本瓦葺の一重裳階造りとなっています。 (登録有形文化財) |
放光堂 山形県鶴岡市にある総穏寺の本堂として、安政年間(1854~1859)に建立されたものを、明治44(1911)年に移築したもので、檀信徒の位牌を祀っており、入母屋造、桟瓦葺となっていて、桁行が30mある建物です。 |
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三寶殿 三門の東側にある丘を登ったところに建てられていて、總持寺の守護神である三寶大荒神を祀っており、身体健全・心願成就・交通安全・合格祈願などの祈祷を行っています。(登録有形文化財) |
大梵鐘 鐘楼にある関東一の大きさの梵鐘は、大正2(1913)年に鋳造されたもので、重量は18.75t。(登録有形文化財) |
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芭蕉菴桃青像 | ||||||||||
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生麦事件発生現場 江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、薩摩藩第12代藩主島津茂久の父である、島津久光の行列を、川崎大師に馬で向かう途中のイギリス人たちが、「行列の行き先をさえぎった」として、伴回りの藩士たちが1名を殺害2名に傷を負わせるという、殺傷事件が発生しました。後に伝えられる「生麦事件」の発生現場です。 当時、国内は尊王攘夷運動が激しくなっている最中であり、安政3(1856)年に米国の初代駐日公使ハリス襲撃未遂事件、安政6(1859)年にロシア海軍軍人殺害事件、万延元(1860)年にはヒュースケン殺人事件、文久元(1861)年にはイギリス公使館襲撃事件(東禅寺事件)など多くの外国人襲撃・殺人事件が発生しており、事件処理に対する幕府の姿勢もあって、翌文久3年に発生した薩英戦争の発端ともなった事件です。 (所在地:鶴見区生麦4-25-41) |
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鶴見事故慰霊塔 鶴見事故は、昭和38(1963)年11月9日の21時40分ごろに、東海道本線の鶴見駅と新子安駅の間にある滝坂不動踏切付近で、定刻より4分遅れで走行中の品鶴線の佐原発野洲行き下り貨物列車が突然脱線し、東海道線の線路を進行中の久里浜発東京行き上り横須賀線電車、さらに下り線を走行中の東京発逗子行き電車が相次いで進入してきて衝突した多重列車事故です。 貨物列車の脱線はカーブ地点で発生しており、後の調査で、車両の問題・積載状況・線路状況・運転速度・加減速状況などが複雑に絡み合った競合脱線でしたが、貨物列車に衝突した上り列車は90km/h前後の速度で進行中であり、下り列車は河川の異常を検知して減速中でしたが、停止することもできずに衝突するという大惨事となり、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出すこととなりました。 事故が発生した日は、福岡県大牟田市の三池炭鉱で、死者死者458人を出した大爆発事故が発生したこともあり、当時、、「血塗られた土曜日」、「魔の土曜日」と呼ばれました。 所在地:鶴見区岸谷1-2-9) |
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