神田明神

千代田区外神田にある神田明神、正式な名称は「神田神社」といい、社伝によると、天平2(730)年に武蔵野国豊島郡(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのが始まりとされていて、その後、承平5(935)年に天慶の乱で亡くなった平将門の首を祀ったところ、周辺において疫病が発生し「将門の祟り」であるとして供養が行われ延慶2(1309)年に祭神とされました。
江戸時代に入っての元和2(1616)年に江戸城の表鬼門守護の場所となる現在の地に遷座し、江戸総鎮守として尊崇され、幕府をはじめ庶民の厚い信仰をうけており、「神田祭」は江戸三大祭りのひとつであって、祭りの山車は将軍上覧のため江戸城中に入ることが許されていたので「天下祭」といわれていました。
神社の社殿は、権現造りの社殿が江戸時代の天明2(1782)年に造営されていましたが、関東大震災で焼失し、昭和9(1934)年に当時としては珍しい鉄筋コンクリートで再建されたもので、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲では境内に焼夷弾が落ちたものの焼失を免れています。
右の写真は本郷通りから見る神田明神の随神門です。
 
 
    
随神門

昭和50(1975)年に昭和天皇の即位50周年を記念して、総檜・入母屋造、二層建て・屋根は銅板瓦棒葺きで建てられたもので、一層部分の外側には右に豊磐間戸神、左に櫛磐間戸神の随身像が安置されています。また層階部分には勾欄に隠れてちょっと見難いですが、金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られています。
   
 
      
鳳凰殿

随神門から境内に入って左側にあるのがこの鳳凰殿です。
鳳凰殿は神札授与所として又参集所として用いられており、鉄骨造りの三階建てで、朱塗、入母屋、正面唐破風となっています。
   
     
社殿

東京大空襲の被害を免れた社殿は昭和9(1934)年に造営されたもので、当寺としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、総朱塗の入母屋造りで正面唐破風となっており、国の登録有形文化財に指定されています。
   
    
狛犬

社殿の両側には一対の狛犬がありますが、普通狛犬の置き方は向き合っておかれていますけれど、ここ神田明神の狛犬は正面を向いています。
    獅子山

社殿に向かって右側にある石山には、江戸時代に「坂東三獅子」として有名であった三体の獅子像が置かれています。
獅子の像は、生涯に3つしか造らなかったといわれる武州下野の名工、石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)作の石獅子で、「親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子獅子をはじめて我が子とする」という内容を造形化したものです。
 
 
   
  毎年2月3日の節分祭では大きな鬼の首が置かれます。これは「大江山凱陣(おおえやまがいじん)」です。
江戸時代の神田祭では本来の山車に劣らず人気を博していたのが「附け祭」といわれル出し物でした。附け祭とは、曳き物(ひきもの)と呼ばれた巨大なはりぼての人形や様々な流行の衣装を身にまとい流行の音楽を奏でながら行列に参加した踊り子などのことを言っていましたが、その代表的なもののひとつが、この酒呑童子という鬼の首を象ったとされる大江山凱神であったといわれています。
節分祭では境内に飾られるだけですが、二年に一度の神田祭では街中を練り歩くようです。
 
     
えびす様尊像

鳳凰殿の横にあるのがこのえびす様尊像で、平成17(2007)年に鳳凰殿が完成したのを記念して造られたもので、イルカやトビウオたちに護られて海を渡るえびす様が彫られています。
   
 
     
  神馬美幸号

平成22(2010)年長野県は佐久市生まれの牝馬で、通称「あかり号」とよばれています。
 
     
  大黒像

昭和51年に完成したこの大黒様の像は、高さ6.6m、重さが約30トンあり、石造りのものとしては日本最大のものです。
    お百度石

鎌倉時代からあったといわれる民間信仰の「お百度参り」、人に見られないよう夜中に裸足で、社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返すことによって心願が成就するように願ったとのことで、何度参ったかわからなくなるのを避けるため、小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参るたびに四角く切り取られたところに置いていました。
「こより」とは、和紙を細長く切ってよりをかけ、糸のようにしたもので、元結を結ぶとき、あるいは水引として用いられていました。
 
     
  魚河岸水神社

魚河岸水神社は水神である弥都波能売命(みつはのめのみこと)を祭神とする末社で、日本橋に魚河岸があったころに、徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため市場の守護神・大市場交易神として境内に祀られていましたが、明治時代の一時期には日本橋にある常磐稲荷神社の合殿に祀られていましたが、明治34(1901)年に境内に遷座しています。
 
     
  小舟町八雲神社

建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祭神としている神田明神の摂社のひとつで、元和年間に江戸城内吹上御苑より遷座されたもので、牛頭天王三社のうちの天王三の宮と呼ばれています。
両脇に置かれているのは「小舟町」と名の入った鉄製の天水桶で、文化8(1611)年に江戸の魚問屋中間に属する商人、遠州屋新兵衛他十名の寄進で奉納されたもので、鋳物師釜屋六右衛門の鋳造によります。
 
     
  大伝馬町八雲神社

建速須佐之男命を祭神としている神田明神の摂社のひとつで、三天王のうちの天王二の宮と呼ばれていて、江戸時代以前より祀られていたと伝えられています。
6月5日に行われる天王祭、元和元(1615)年頃より行われていたという歴史があり、大伝馬町天王と称され、他の天王祭とともに大いに賑わったとのことです。
 
     
  江戸神社

建速須佐之男命を祭神としている神田明神の摂社のひとつで、三天王のうちの天王一の宮と呼ばれていて、大宝2(702)年に現在の皇居内に創建された江戸最古の地主神で、神田神社が現在の地に遷座する際にともにこの地に遷座し、太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから、「南伝馬町持天王」とも称され、:現在でも崇拝されている神社です。
神社の神輿渡御は慶長10(1605)年に初めて行われ、元禄年間には江戸城内にも入ることを許され「天王祭」として神事が行われていました。
現在では2年に一度行われる神田祭で千貫神輿が宮入りし、多くの人で賑わっています。
 
        
  浦安稲荷神社
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とする神社で、江戸平川(現在の神田川)の河口に近い内神田鎌倉町付近(現在では内神田3丁目付近のようです。)に、天正年間に勧請され、その後天保14(1843)年に現在地に遷座しています。
 
       
  三宿稲荷神社
境内末社のひとつで、創建の時期は不明ですが、宇迦之御魂神を祭神としており、江戸時代より神田三河町(現在の神田1丁目と神田司町2丁目付近および神田美土代町の一部付近)の守護神として祀られていました。
金毘羅大神
天明3(1783)年に武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目両国町会)に創建され、大物主命(おおものぬしのかみ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祭神とし、隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めていました。

両社は昭和41年に境内に合祀されています。
 
        
  裏参道
蔵前橋通りの妻恋坂交差点と清水坂下交差点の中間あたりにあるのがこの裏参道です。
階段を上りきると社殿の裏側となりますが、この道を上ってゆく人はあまりいないようです。
    阿部筲人(あべしょうじん)の句碑
阿部筲人は、昭和初期の俳人で、俳句雑誌『好日』を主宰し俳句論をおこなった人で、句碑には「山茶花の散るや己の影の中」と刻まれています。
              
  水野年方顕彰碑
幕末に江戸は神田紺屋町の左官屋に生まれ、後に水野家の養子となった水野年方は、月岡芳年に浮世絵を学び、その傍らで山田柳塘・柴田芳洲・三島蕉窓・渡辺省亭などについて南画を学び、美人画や歴史風俗画を得意としていた人で、錦絵の代表作に『三十六佳選』や『今様美人』シリーズなどがあります。
明治41(1908)年に41歳で亡くなっています。
    千社札の碑
千社札は、江戸時代中期に始まったといわれ、参拝者が、自分の名前・屋号などを記した紙札を社寺に貼ることで御利益が得られるとされていました。
200枚以上もの「千社札」が刻み込まれた碑ですが、建立は平成12(2000)年とそんなに古くはありません。
 
        
  合祀殿
籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲く耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀しており、平成24(2012)年に建立されたものです。
 
 
  祖霊社
神田明神の氏子、崇敬者の先祖をお祀りするお社として平成16(2004)年に創建されたものです。
 
   
  末広稲荷神社
元和2(1616)年ごろの創建といわれ、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、級長戸辺之命(しなとべのみこと)、級長津彦之命(しなつひこのみこと)を祀っていた旧社で、庶民の信仰を集めていました。現在の社は昭和41(1966)年に再建されたものです。
 
     
  国学発祥の地碑
社殿の東側にあるこの碑は、伏見稲荷大社の神職であった荷田春満が、江戸に出て国学の教場を開いたのが、神田神社社家の芝崎邸内であったゆかりから、昭和53(1988)年に建てられたものです。
 
     
  銭形平次の碑
銭形平次は野村胡堂の名作『銭形平次捕物控』の主人公で、神田明神下台所町(現在の外神田二丁目付近)となっており、その由来により明神下を見下ろすこの地に昭和45(1970)年に建てられたものです。平次の碑の右側には八五郎、通称『ガラッ八』の小さな碑があります。
 
     
  男坂
社務所の左側にある階段で、神田明神の裏参道のひとつで「明神男坂」あるいは「明神石坂」と呼ばれています。、天保年間に神田の町火消の「い」、「よ」、「は」、「萬」の4組が石段と石灯籠を奉献して造られたもので、68段の階段となっています。
この男坂のそばには大銀杏の木があり、江戸湊に入ってくる漁船の目標になっていたいわれ、また、ここからの眺めがよいので、当時は毎年1月と7月の26日に夜待ちという「観月」で賑わっていたとのことです。
 
 
     
     
     
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