鹿児島街歩き その3  
   
   
  ウォーターフロントパークから見る桜島の日の出
日の出を待っていると南岳から上がる噴煙が、大きくなったり小さくなったりしています。
 
 
   
  鹿児島旧港施設 一丁台場

鹿児島本港のところに出っ張ったかたちとなっている台場ですが、
明治5年(1872年)ごろに築かれた鹿児島旧港の一部で、港湾技術の歴史敵遺構であるとのことで平成19年(2007年)に国の重要文化財に指定されています。

所在地:鹿児島市本港新町4
 
 
   
  鹿児島旧港施設 遮断防波堤
 
旧港施設は、一丁目台場と同じ明治4年頃に海岸埋め立て地の波除けとして築かれたもので、遮断防波堤は、鹿児島市の修築事業で明治37年(1903年)に竣工しており、国の重要文化財に指定されています。
 
 
 
 


薩藩水軍軍港跡の碑
鹿児島五社である春日神社の一画にあるこの碑のあるところは、稲荷川があるところで、当時は薩摩藩の軍港があったところでした。

所在地:鹿児島市春日町8-2
 
 
 


森有礼誕生の地碑

森有礼もり(ありのり)は、この地で、江戸時代末期の弘化4年(1847年)に薩摩藩士の五男として生まれ、藩校であった造士館で漢学を学び、その後は洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講、五代友厚らとともにイギリス、ロシア、アメリカと旅行し、明治維新後に帰国。
明治8年(1875年)には現在の一橋大学の前身となる商法講習所を設立し、第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣を務め、東京高等師範学校(現 筑波大学)の改革を行って日本の教育政策に携わり、様々な学校制度の整備を行いました。
しかしながら、明治22年(1889年)に2月11日に日本国憲法発布の記念式典の日に国粋主義者の暴漢に刺され43歳で亡くなっています。

所在地:鹿児島市春日町11-7
 
 
 
 
 

石橋記念公園の岩永三五郎像

鹿児島市内を流れる甲突川には、江戸時代の後期に藩主島津重豪の命により五石橋と呼ばれた石橋が架けられていました。
橋は平成5年(1993年)8月6日に発生した集中豪雨(8.・6水害)により、現存していた五石橋の内の「武之橋」と「新上橋(しんかんばし)」が流失、残る西田橋、高麗橋、玉江橋の3橋も大きな被害を受けたため、原状回復するか移築するかで大きくもめた結果、保存するためこの地に移設し、石橋記念公園として平成21年(2000年)に開園したものです。
公園がある場所は、かつて島津斉彬によって築かれた祇園之洲砲台跡に造られた祇園之洲公園と隣接しています。
この像は、五石橋を造った岩永三五郎の像で、三五郎は、江戸時代後期の種山石工と呼ばれた熊本八代の石工の中心的な人物で、アーチ式の橋を造る技術を学んで、25歳の時から熊本の美里町に現存する雄亀滝橋(おけだけばし)水路橋を架けるなど多くの石橋の架橋を行っています。
なお、三五郎の甥の丈八は、明治政府の招きを受けて、皇居の二重橋等の架橋に携わったとのことです。
 
所在地:鹿児島市清水町25-8
 
 
     
   
  西田橋
橋は、江戸時代に薩摩藩が参勤交代時の道筋にあったとのことで、城下の玄関口となっていました。弘化3年(1846年)に木造造りであった橋を、現在の県道24号線が甲突川をまたぐ位置に架設された橋で、通称「眼鏡橋」とも呼ばれ、4連アーチ橋で全長は約50mあり、高欄にある青銅製の擬宝珠は木橋時代のものがそのまま取り入れられており、岩永三五郎の代表作ともいえる橋とのことです。
橋下の水は鹿児島市が
子供たちが川遊び体験ができるようにと工夫したスポットということです。
 
 
   
   
   
  西田橋御門
かつて西田橋の左岸側にあった御門で、明け六つ(現在の時間では午前6時前後)に開門し、暮れ六つ(午後6時ごろ)に閉門していたのことで、橋を通り武士や町人、領内を通過する旅人は橋の横にある番所で改めを受けていました。
橋のそばにある紹介文では、明治天皇が明治5年(1872年)に行幸した際に撮影した写真がありますが、その後の西南戦争でしており、当時の写真などを基に復元されています。
 
 
   
  高麗橋
現在の甲突川に架かる高麗橋のところにあった橋で、弘化4年(1847年)に4連のアーチ橋で造られており、水害後の河川改修でこの地に移設されました。
 
 
   
     
 



西南の役官軍戦没者慰霊塔

明治初期に発生した西南の役、考え方の違いから肉親たちが敵味方に分かれて約7か月間の攻防を行い、西郷隆盛率いる薩軍側は6,400人余、官軍側は6,840人余の戦死者を出し、家を失うもの、親兄弟を亡くすものが大勢にのぼりました。
最後の決戦となった籠島でも多くの将兵が倒れており、、亡くなった官軍の将兵約1,270人が祇園之洲にあった官修墓地に葬られていましたが、時を経るにつれて荒廃が進んだため、昭和30年(1955年)に地下納骨堂に合葬するとともに、西南戦争100年に際してこの慰霊塔を建立したものです。

所在地:鹿児島市清水町25-8
 
 
 


祇園之洲砲台跡

碑には「舊薩藩砲臺跡」と刻まれていますが、碑のある場所は、稲荷川の河口に近く遠浅であった場所で、祇園浜とも呼ばれていたところです。
この地を薩摩藩は軍事訓練施設とするため調所広郷が埋立て砲台が築かれました。
文久3年(1863年)の薩英戦争の際には、配備されていた砲台そばで座礁したイギリス軍艦を救出すべく救助艦からの一斉射撃で砲台が破壊されてしまったとのことです。

所在地:鹿児島市東谷山7-1
 
  
 


薩英戦争記念碑

記念碑は、鹿児島の有志達によって大正6年(1917年)に、物産陳列所構内(現・ 県立博物館敷地)に建立されたもので、昭和6年(1931年)に県立博物館が建設されることとなってこの地に移設されたものです。
碑の最上部にある飾りは、島津家の御馬標一本杉が表現されているとのことです。

御馬標とは、戦場で味方に対して自分の位置を示したり、士気を鼓舞するために、軍旗の代わりに用いた装飾物です。

所在地:鹿児島市清水町26-26
 
 
 
   
  玉江橋
嘉永2年(1849年)に架けられた4連のアーチ橋で、五石橋の内では甲突川の上流部にありました。(現在の玉江小学校そば)
橋の名前は、藩主島津斉興の衣類に付けられた「玉の印」に由来するという説と、橋がある付近は湿田が多くあり、雨が降るたびに入り江のように水がたまっていたことからついたとの説があります。
 
 
 
 
 
 
 


祇園之洲公園

錦江湾に面した一画にある公園で、上記の高麗橋や玉江橋の他にソフトボールやサッカーの練習ができるようになっています。

所在地:鹿児島市祇園之洲町
 
 
 
   
  公園からは正面に桜島が遮るものなく一望できる撮影スポットとなっています。
 
 
   
 
 

ザビエル上陸記念碑

スペイン生まれのフランシスコ・デ・ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣されて宣教活動を続けている最中の1547年12月に、鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)と出会いました。
ザビエルは、1549年にゴアで洗礼を受けたばかりの日本人のヤジロウをはじめとする3名の日本人やイエズス会の宣教師たちとゴアを出発し、薩摩半島の坊津(現在の南さつま市)に上陸、その後許しを得て天文18年(1549年)8月15日に祇園之洲に来着しました。
ザビエル一行は、鹿児島での布教を開始した後に肥前国平戸に移動、更には周防山口、そして瀬戸内海を経由して堺から京に至り、日本全国での布教活動を後奈良天皇、、足利義輝将軍への拝謁を願うも叶わず
平戸に戻り、大内義隆に謁見して献上品で宣教の許可を得たとされています。(献上品には眼鏡があったといわれています。)
その後ザビエルは豊後に移動し、守護大名大友義鎮(のちの宗麟)に会い、布教活動を豊後の国で行いました。
2年間日本にいたザビエルは、天文20年(1551年)の11月に日本人青年4人とインドのゴアを目指して出発、、再び日本に戻ることなく翌年12月に46歳で亡くなりました。
 
所在地:鹿児島市祇園之洲町
 

 
 
   
      
   
  「我は海の子」の歌碑
公園内にあるこの歌碑は、明治43年(1910年)発行の文部省「尋常小学校読本唱歌」に初出した『我は海の子白浪のさわぐいそべの松原に・・・・』で始まる歌の歌碑で、市内加治屋町生まれの宮原晃一郎の作詞ともいわれている歌です。今ではほとんど聞かれなくなった文部省唱歌、ページを作ろうとして調べていたら、島根県では数こそ少ないものの、現在でも歌い続けているとのこと。古い歌ですが、他の地域でも続けて歌い続けていただきたいと思いました。
(逆光状態での撮影のため、補正しても歌詞が読み取れる迄補正しきれませんでした。)
 
 
   
  旧鹿児島紡績所技師館

技師館は、江戸時代末期の慶応3年(1867年)に、鹿児島紡績所に招聘したイギリス人技師の住居として建築されたもので、通称は「異人館」といわれていました。建物は、コロニアル様式の木造二階建て、方形屋根造りで瓦葺、壁は白ペンキで塗られていました。
西洋建築として日本各地に建設された中でも、現存する二階建ての住居としては最初期のものであり、幕末の洋風化建築の進展を示す貴重な遺産です。
訪れたときは修復工事中で、工事用フェンスで囲われていて、外観全体を撮ることができず、近ければも一度出かけるのに、残念の一言です。
建物は昭和37年に国の重要文化財に指定され、平成27年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つ(エリア2)としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

所在地:鹿児島市吉野町9685-15
 
 
   
   
 
 


鹿児島紡績所跡の碑

薩英戦争で近代化工業の重要性を知らされた薩摩藩は、五代友厚たちの意見を取り入れて、西洋の新しい技術や機械を取り入れることとなり、慶応3年(1867年に)日本初の洋式機械紡績工場が竣工しました。
工場内には蒸気機関を取り入れ開綿機、・梳綿機、錘精紡機・力織機など150台が設置され、関西方面から買い入れた綿花を用いて、200人もの職工たちが1日10時間の就業で180kgを紡いだとのことで、明治30年(1897年)まで事業が続けられました。
跡地は、「鹿児島紡績所跡」として国の史跡に指定されています。

所在地:鹿児島市吉野町9685-25
 
 
     
   
  磯造船所跡
磯海岸近くにあるこの史跡は、かつて洋式戦の研究・開発を行っていた造船所があったところです。
江戸時代末期に当時の藩主であった島津斉彬は、西洋式の大型船が必要との考えから、長崎から船舶に関する絵図や技術書を取り寄せ洋式船の建造を命じました。
藩では軍船を管理する御船手の役人たちが、地元の船大工と長崎から招いた船大工たちと造船にあたり、実験船の三本マストの帆船「伊呂波丸」と小型帆船の「越通船(おっとせん)」を建造し、安政4年(1858年)には日本初の蒸気船雲行丸の開発にも成功しました。
 
 
     
     
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