鹿児島街歩き その4 | ||||||||
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訪れたときは園内で菊祭りをおなうための準備が行われていました。 |
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左上の写真の中央に見えるのは人間の手ではありません。顔、足をつけて右の写真のように完成です。 |
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29代当主島津忠義により明治28年(1895年)に建てられた正門。上は国道側から、下は園内側から撮影 |
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錫門 江戸時代の後半に建てられたといわれる錫門、この門を通ることができるのは藩主と嗣子(世継ぎ)だけであったとのことです。 門の名前は屋根に葺かれている錫からきており、江戸時代の初めに錫の鉱山が発見され、薩摩藩の特産品となっていました。 尾根は瓦葺または銅板葺きがほとんどですが、錫を用いられている屋根はめったに見ることができません。 |
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御殿 現在ある御殿の建物は、明治17年に改築された部分が中心となっていますが、薩摩藩最後の当主であった29代当主の島津忠義は、鹿児島城が焼失していたこともあって、一時ここを本邸として利用していました。 この御殿には、1890年(明時23年)の秋からの世界旅行中に日本に立ち寄った、ロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)が明治24年(1891年)の4月から5月にかけて日本に立ち寄った際に訪れており、大正11年にイギリスkのエドワード皇太子(後のエドワード8世)がプリンス・オブ・ウェールズとして訪れており、祝賀会の際には鎧兜をまとって参加されました。 注:ニコライ皇太子は日本国内を回っていましたが、5月11日に滋賀県の大津から京都に戻る際に滋賀県の警察官によってサーベルで切りつけられるという事件(大津事件)が発生しています。 |
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望嶽楼 約350年前に琉球王国から伝わったといわれる東屋(あずまや=四阿)で、28代当主の島津斉彬がここで勝海舟と面会したとのことです。 |
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茶室秀成荘 右隣にある徒然庵とともに、昭和62年(1985年)に建てられた茶室で、秀成荘は広間、徒然庵は小間として用いられています。 |
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水力発電用ダム跡 第29代当主島津忠義が、工場である就成所用の送発電をするために設けたもので、上部の水槽からの落差を利用して、下にあった水車を回転させて発電するという仕組みで、明治25年(1892年)には邸内に電気を送って灯りを灯したり、就成所と邸内をつなぐ電話にも利用されていました。 因みに鹿児島市内の電灯は5年後の明治30年(1897年)、電話はさらに遅れて明治39年(1906年)とのことでしたから、島津家は時代の先端をいっていました。 |
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曲水の庭 昭和34年(1959年)に発掘により発見されたもので、元禄15年(1702年)に21代当主島津吉貴の時代に築造されたと推定されており、ここで「曲水の宴」が催されており、現在も平成4年(1992年)に復活して毎年続けられています。 |
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江南竹林 「江南」とは孟宗竹の別名で、この林は、琉球在番として赴任していた物頭野村勘兵衛良昌が、元文3年(1736年)に帰国する際に、琉球滞在中に清から輸入した孟宗竹を献上したのが、国内で初めてといわれています。 右の写真は、刻まれた文字が薄れだして判読しにくくなっていますが、「仙巌別館江南竹記」の碑で、五代友厚の父の五代秀堯(ひでたか)によるものです。 |
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濾過池 明治40年(1907年)に設けられたこの濾過池は、仙厳園に隣接する千尋厳から水道管を経由して流れくる水をろ過して敷地内の各所に配水していました。建物は登録有形文化財に指定されており、日本土木学会選奨の土木遺産となっています。(下の写真は内部を撮影) しっかり写真を撮ったと思って画像を確認しないまま家に帰り編集しようと思ったらなぜか斜めの写真だけ。ダメですね~~) |
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園内の建物、史跡等全て撮ったと思っていましたが、ページ編集をしていると撮り漏れがあるのがわかりました。場所が近ければも一度撮りに行けるのにチョット残念です。 |
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鹿児島空港を離陸するJ-AIRと霧島連山(右端の山は標高1,574mの霧島の嶺) |
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仙厳園のマップ |
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