岩国城
 
山口県岩国市の標高200mほどの横山にあり、日本100名城の74番に選定されている岩国城は別名横山城ともいい、江戸時代初期の慶長5年(1601年)に関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が広島城から萩城に入封される際に、家臣である吉川広家も米子城から当地に3万石で封じられ、赴任と同時に築城を開始、慶長7年(1602年)には山の麓に平時の居館となる「御土居」を設け、山の上の本丸には慶長13年(1608年)に4重6階の桃山風南蛮造りの天守が設けられましたが、築城7年後の元和元年(1615年)に徳川幕府の一国一城令により廃城となり破却処分、御土居が岩国領の陣屋として明治維新まで存続しました。
城は昭和37年(1962年)に「天守構造図」という絵図をもとに本来の天守の位置より南側に模擬天守が鉄筋コンクリート造りで復元されており、御土居のあった場所は吉香公園(きっこうこうえん)として利用されています。
城へは麓を流れる錦川に架けられた錦帯橋を渡って往かなければなりません。
 
    
錦帯橋
 
日本三名橋や祖谷のかずら橋、山梨県の猿橋とともに日本三大奇橋に上げられ、国の名勝にも指定されている木造5連のアーチ橋で、全長193.3m、幅は5.0mあり、継手や仕口といった釘を一本も使用しない組木の技術によって造られており、杭州の西湖にある橋からヒントを得て架けられたものです。
城と城下町をつなぐ橋は錦川の洪水により度々流失、岩国第3代藩主吉川広嘉により洪水に耐えられる橋の構築を考え、甲州猿橋のような跳ね橋での工法を検討するも川幅が広いため断念。明の帰化僧である独立性易から杭州の西湖に6連のアーチ橋があることを知らされ、橋脚の代わりにアーチ橋の橋台を石造りとすることで洪水に対応できる設計を行って延宝元年(1673年)に初代の橋が完成しました。しかしながら翌年発生した大洪水により流失したため橋台を強化して再建し昭和初期まで250年間定期的に架け替えは行うものの流失せずにその姿を保っていました。
江戸時代において橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税を徴収していましたが、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになったのは明治に入ってからとのことです。
昭和以降の橋の流失は、昭和25年(1950年)9月の台風29号(キジア台風)により流失、平成17年(2005年)の台風14号による流失と2度発生しています。
また、平成10年(1998年)にはトラックで橋を渡るといった事件が発生したようですが、2橋目のところで渡り切れずにストップしたとのことです。
    
 
        

    
     
  吉川広嘉公像
吉川広嘉(きっかわひろよし)は岩国藩の第3代藩主で、瀬戸内沿岸二千町歩を干拓し耕地を拡大したほか錦帯橋の架橋を行うなど藩の治績を行っています。
像は錦帯橋を渡ってすぐのところに錦帯橋を見るように建てられています。
    岩国城ロープウエー山頂駅
岩国城へは麓の駅から山頂駅までロープウェイで上ります。ロープウェイに乗っているのはわずか3分足らず、あっという間に到着します。(乗車券は錦帯橋、ロープウェイ往復、岩国城天守がセットになっていて940円)
 
        
  香川家長屋門
吉香公園の手前右側にあるこの長屋門は、元禄6年(1693年)に建てられたと伝えられる岩国藩の家老であった香川氏の表門で、岩国市内で最も古い建物のひとつとなっており、山口県の有形文化財に指定されています。
 
     
  吉香公園
公園は吉川氏の居館があったところですが、明治13年(1880年)から昭和43年(1968年)まで旧制岩国中学校(後の県立岩国高校)として利用されていましたが、高校の移転に伴い公園として整備されたもので、「日本さくら名所100選」、「日本の歴史公園100選」に選定されています。
 
   
  ロープウェイから見る錦帯橋
あいにくの逆光でちょっと見難くなっています。
 
    
   
   

大手門
 
東南側から見る天守閣
 
     

旧天守台
 
旧天守台側から見る天守閣
 
     
  ロープウェイの麓駅に近いところには吉香神社があり、お濠に架かる石橋を渡ってゆきます。  
        
  錦雲閣
石橋を渡りお濠沿いに建てられた錦運閣は、吉香公園ができたときに旧藩の矢倉に似せて造られた絵馬堂で岩国市の登録有形文化財となっています。
 
     
 
 
     
     
     
       
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