火の山公園とみもすそ川公園
 
火の山公園
本州の最西端にある下関市、関門海峡を見下ろすところにある標高268.2mの「火の山」は、平安時代には山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙台が設けられていたことからこの名がついたところで、室山時代には火山城という山城が築かれていたところで、明治23年(1890年)には当時の帝国陸軍の砲台が置かれ、下関要塞の一部として関門海峡、周防灘の沿岸防備にあたり、第二次世界大戦が終わるまで民間人の立ち入りが一切禁止されていました。
戦後要塞の跡地は取り壊されたものが多くわずかにその名残を示す砲台跡などが残されており、一帯は火の山公園として一般に開放されて展望台から関門海峡、関門橋、壇ノ浦などが一望にできることから観光客が訪れる観光スポットとなっています。
 
     
  火の山展望台から見る関門橋
訪れたこの日は気温が高く全体に靄っており、また、ガラス越しの撮影とあって色も良くありません。写真右端の道路は国道9号線で、道路の左側がみもすそがわ公園、右側の一番背の高い建物が関門橋人道トンネルの入り口となるところです。
関門橋は昭和48年(1973年)に完成した橋長1068mの吊り橋で、海峡を大型船舶が航行することから、桁下から海面までは61mの高さがあります。
 
     
  戦艦大和の弾丸
帝国海軍が建造した排水量64000tの史上最大の戦艦「大和」は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)4月7日鹿児島県大隅半島にある坊ノ岬沖でアメリカ軍の猛攻撃を受け(いわゆる坊ノ岬開戦)て沈没しました。
この弾丸は大和の主砲用として造られたもの(実物)で、全長1.95m、重さ1,740㎏あり、最大射程は42㎞あったとのことですが、坊ノ岬会戦では一発も発射することができなかったとのことです。
 
     
  火ノ山砲台第3砲台の側砲庫跡
火ノ山砲台には4ヶ所の砲台が設置されていましたが、これは第3砲台の地下倉庫(側砲庫)の遺構で、設置された当時はレンガとコンクリートで覆われ24センチカノン砲の弾薬などが収蔵されていました。
 
     
   
第4砲台跡
第4砲台は一段高いところに置かれており、28センチ榴弾砲の砲座(上右写真の中央)が置かれ、その下には指令室と観測所が設けられていました。 
 
     
みもすそがわ公園
 
   
かつてこの地には御裳川(みもすそがわ)という名の小川があり、壇ノ浦に注いでいたところで、現在は当時の名残を示すように橋が架けられており、一帯が公園となっていて環境省が設定した「残したい日本の音風景100選」に「関門海峡の潮騒と汽笛」という名で選定されているところです。
       
壇ノ浦海岸
 
本州と九州の間にある関門海峡の中で最も狭隘な場所に位置しており、その幅は門司市の和布刈との間でわずか600mしかありません。
ここ壇ノ浦は平安時代末期の治承4年(1180年))から元暦2年(1185年)にかけて発生した治承・寿永の乱の最後の戦いとなった「壇ノ浦の戦い」の舞台となり、源氏に敗れた平家が滅亡の道をたどることとなった場所であり、また、幕末の文久3年と4年にかけて発生したイギリス、フランス、フランだ、アメリカの列強4国との間で発生した下関事件と馬関戦争の場所となったところです。

下関事件と馬関戦戦争は両方を併せて「下関戦争」とも呼ばれていますが、下関事件は、文久3年5月に攘夷論を唱えていた長州藩が、馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖して、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加え、半月後に報復措置としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えたものです。
また、馬関戦争は、元治元年7月に海上封鎖にを行う長州軍に対して、イギリスがフランス・オランダ・アメリカの三国と併せて艦船17隻で連合艦隊を結成して、馬関(現 下関市の中心部)と彦島にある砲台に攻撃を加えて破壊、占拠したものです。
この結果、長州藩は攘夷論から転換、薩長同盟を締結して倒幕への道を進むことなりました。
   
    

壇ノ浦古戦場跡の碑
 
源義経像
 
平知盛像
 
     
  安徳帝入水の地碑
治承4年にわずか数え年3歳(満1歳4か月)で即位した安徳天皇は、源義仲の入京により平家一門と屋島(香川県高松市)に都落ち、屋島の戦いで平家が源氏に敗れると海上に逃れ、更に壇ノ浦の戦いで平家は敗れたため、数え年8歳(満6歳4か月)で二位尼(平時子 平清盛の正室)に抱かれて入水、翌日漁師の網に遺体がかかり引き上げられ、近くにお旅所を設けて安置したとのことです。(『平家物語』による)
石碑には二位尼の辞世『今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは』が刻まれています。

 
     
  馬関開港百年記念の碑
元治元年(1864年)、下関戦争で惨敗した長州軍は、当時脱藩の罪で監禁されていた高杉晋作を家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗らせて講和使節の任に命じ、四国連合が要求する、関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いなどの講和の条件を全て受け入れ講和を成立させ、事実上馬関が開港されるに至りました。
この碑は開港100年を記念して昭和40年(1965年)に建立されたものです。
なお四国連合は彦島の租借を求めたとのことですが、高杉か、彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話があるようですけど、これは後日通訳で同席した伊藤博文が述懐したものであり、真実は不明のようです。

(撮影後写真を拡大して碑文を読もうとしましたが、拓本をとった名残りか文字が読みにくくなっていて判読ができませんでした。)
 
    
長州砲
下関戦争で、下関砲台に備えられた長州藩の青銅製の大砲はすべて戦利品として持ち去られていましたが、そのうちの一門がフランスはパリにあるアンヴァリッド軍事博物館(廃兵院)にあることがわかり、フランス政府より貸与という形で戻されたときに作成したレプリカです。
右の写真は原寸大に作成されたレプリカで5門あり、そのうちの1門は硬貨を投入すると音と煙を出す仕組みになっています。
     
 
     
関門トンネル人道
みもすそがわ公園のある国道9号線を挟んだところにあるのがこの関門トンネル人道です。
トンネルそのものは国道2号線になり、山陽本線にも同じ名前のトンネルがあるので「関門国道トンネル」とも呼ばれています。
トンネルは起点がここみもすそ川、終点が北九州市門司区大字門司で、上3分の2が車道、3分の1が人道の二重構造となっていています。
人道部分は地下58mのところにあって、幅4m、長さ780mあり、朝6時から夜10時まで通行可能ですが、エレベータを用いて地下に降り通行することとなっていて、歩行者、自転車及び50㏄以下の原付バイクが通れますが、自転車と原付バイクは乗車して通ることはできません。
通行料金は歩行者は無料、原付バイクは20円となっています。
   
     
   
     
 
 
     
     
     
     
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