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旧東海道程ヶ谷宿と戸塚宿
江戸幕府が制定した宿駅制度のうちの旧東海道五十三次で、京から50宿目、江戸から4宿目となる程ヶ谷(保土ヶ谷)宿と5番目となる戸塚宿を歩いてみました。
程ヶ谷宿
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江戸方見附跡
設置されている説明板の文字が擦れだしていていて読み取りにくいですが、神奈川宿の江戸方見附は、現在の保土ヶ谷区天王町1丁目11番付近にあったとされています。
神奈川宿にあった「神奈川台の関門跡から約2.4km西に来たところとなります。
ここから西側に約2.2kmのところに上方見附がありますので、この間が保土ヶ谷宿内となるのでしょうか。
所在地:保土ヶ谷区天王町1—2-8 |
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旧帷子橋跡
相鉄線の天王町駅の南側にある天王町駅前公園に、「帷子橋」と書かれた親柱と常夜燈のモニュメントがあります。この場所はかつて帷子川が流れてて、初代の安藤(歌川)広重が描いた「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」に描かれていたところです。
川は改修工事で、駅の北側に付け替えられたため、その歴史を残すため、公園の中にモニュメントが置かれたものです。
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前ばっかり向いて歩いていると見落としてしまいますが、歩道には「歴史散歩道」と書かれた絵がありました。
絵には飛脚の姿と本陣の建物などが描かれていますが、残念なことに薄れだしています。もう少しはっきりしたのがないかと探しましたけど、あんまり下ばっかり見ていると危険なので途中で断念。
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旧中橋跡
旧東海道と学園通りの交差点角は、かつて今井川が流れていたところで、ここに中橋が架けられていました。
川筋は江戸時代の初めの慶安元年(1648年)人工的に設けられたもので、大雨で度々下流に浸水被害を起こしていました。改修要請はあったものの、200年近く経過した嘉永5年(1852年)に改修が行われたものです。
改修時に発生した残土については、当時建設中であった品川台場の埋め立て用の土として品川まで運ばれたとのことです。
所在地:保土ヶ谷区岩間町2丁目 |
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問屋(といや)場跡
問屋場は、宿場の公的な業務のうちで、幕府や諸大名の公用旅行者の荷物取り扱い(人馬継立)や書状等の取扱(継飛脚)、大名行列の宿の手配などを担っていたところです。
問屋場ではこの業務を行うために宿役人を定めて、人足の手配や馬の用意を行っていました。
また、宿場内で要求に応えられない人馬の手配が必要な時は、周辺の村を指定して人馬の動員を行っていました。この指定された村を「助郷村(すけごうむら)」と読んでいました。
保土ヶ谷宿の場合は、現在の保土ヶ谷区内だけではなく、周辺の西区、旭区、港南区、戸塚区などにあった40ヶ村であったといわれています。
所在地:保土ヶ谷区帷子町2-53 |
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金沢横丁の道標
旧東海道と金沢道との分岐点となっていた交差点で
、円海山、杉田、富岡への枝道があったことから道標が四基設けられていました。
道標は右から「円海山之道」、「かなさわ・かまくら道」、「杉田道」、「富岡山芋大名神社の道」となっています、
「円海山之道」の道標は、天明3年(1783年)に建立されたもので、、現在の磯子区にある小高い丘にある護念寺が『峯のお灸』で有名でした。
「かなさわ・かまくら道」の道標は、天和2年(1682年)の建立で、金沢文庫と鎌倉方面への道標です。
「杉田道」の道標は磯子区の杉谷に至る道で、文化11年(1814年)の建立で、俳人の其爪が詠んだ『程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花』の句が刻まれています。
「富岡山芋大名神社の道」の道標は、現在の金沢区富岡に至る道で、弘化2年(1845年)の建立で、現在の金沢区富岡にある長昌寺に至る道でした。長昌寺は、ほうそう(天然痘)除けの神様で知られた芋神様が祀られていて「里芋の煮っころがし」が参詣者にふるまわれていました。
所在地:保土ヶ谷区帷子町2-71 |
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保土ヶ谷宿本陣跡
保土ヶ谷宿の本陣は、東海道の伝馬制度が定められた慶長6年(1601年)から、安政6年(1859年)に横浜港が開港されるまでの間、小田原北条氏の家臣であった苅部家が、保土谷の問屋・名主を兼ねながら代々務めていました。
説明板の後ろにあるのは本陣の通用門でした。
所在地:保土ヶ谷区程ヶ谷1丁目交差点角 |
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保土谷宿には苅部本陣の他に茶屋本陣があり、このほかに脇本陣が3ヶ所設けられていました。
写真は左から脇本陣藤屋跡、脇本陣水屋跡、脇本陣本金子屋跡、茶屋本陣九左衛門跡の碑です。
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旅籠本金子屋跡
建物の横にある市の説明板では、本金子屋は江戸時代に旅籠として栄えたとのことで、現在の建物は明治2年(1869年)に建てられたものとありますが、脇本陣本金子屋であったのではないでしょうか。
所在地:保土ヶ谷区保ヶ谷1-84
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上方見附跡と一里塚跡
旅籠本金子屋から旧東海道を西に300mほど歩いたところに上方見附跡があります。上方見附は京方見附とも呼ばれており、ここまでが保土ヶ谷宿内でありました。
その横は江戸から8番目となる保土ヶ谷一里塚跡の榎の木です。本来の一里塚はこの地点より300mほど東寄りにありましだ国道拡幅のため取り払われ、見附の横に植えられたものです。
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上方見附跡から今井川沿いに松並木が続いていますが、植えられている松の木はまだ若い松の木で成長途中のようです。江戸時代には「上方の松原」と呼ばれていたとのことですが、現在は見る影もなくなっており、復元事業として約300mにわたって松を植えたとのことです。
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権太坂
毎年正月2日から3日にかけて行われる箱根駅伝の中継放送で、ダラダラ坂が続く『花の2区』で名前が出てくる権太坂ですが、旧東海道の権太坂は横浜新道(左の写真の中央が横浜新道上にある権太坂陸橋です。)の手前で分かれており、結構な急坂が武相国境まで約1.5km続きます。年寄にはきつい坂道です。
両端の写真はカメラを水平に構えて撮っていますが、急坂であるのがわかります。
江戸時代の権太坂は現在よりも急坂であったといわれており、箱根の山越えに続く難所といわれていました。
坂の名前には由来が二通りあり、道を聞かれた老人が自分の名前を聞かれたと勘違いして「ごんたでござる」と返事したのが坂の名前になったといわれている説と、権左という人が代官の指図により坂を切り開き、「権左坂」と名付けていたのがいつの間にか「権太坂」となったといわれています。
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権太坂投込塚跡の碑
急坂であった旧東海道の権太坂では、旅の途中で行き倒れて亡くなる人が多く、亡くなった人を投込む井戸があったとのことで、昭和36年(1961年)の開発で多数の人骨が発見されており、この碑を設けるとともに戸塚区にある東福寺に再埋葬されたとあります。
所在地:保土ヶ谷区権太坂2-24-9
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武相国境の木のモニュメントと境木立場跡の説明板
当時、権太坂の頂上付近は武蔵国と相模国の国境となっていました。モニュメントは国境にある木の横にあり、基台の周囲には東海道五十三次の宿場名が刻まれています。
境木とはこの国境にある木のことをいっており、馬子や人足の休憩用として設けられた立場(たてば)は、高台にあることから江戸湾や富士も見える景観の良さから旅人が必ず足を止め、茶屋名物の「牡丹餅」を食していたといわれています。また、初代広重が描いた東海道五十三次にも「保土ヶ谷」の名で描かれています。
武相国境の木のモニュメント所在地:保土ヶ谷区境木本町2-16
境木立場跡の所在地:戸塚区平戸3-52-5
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境木地蔵
武相国境の木のモニュメントの小高いところにある地蔵堂で、伝承によると鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を、漁師が浜に祀ったところ大雨で流出し、数年後に腰越の海岸に流れ着いた。
漁師がその後夢で地蔵から「江戸の方に行きたい、途中で止まってしまったらそこに放置してもかまわない」と告げられ、牛車で運び始めたものの途中で動けなくなり、地元の村民に後を託したところ、地蔵がその託された村民に「どんな粗末なものでもいいから堂宇を造ってくれたら村を賑やかにしよう」と告げられ、地蔵堂を造って安置したところ参拝客が増え、牡丹餅屋が繁盛して栄えたとのことである。
所在地:保土ヶ谷区境木本町2
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焼餅坂
境木地蔵尊前の交差点から左に曲がると急な下り坂となります。別名「牡丹餅坂」と呼ばれる焼餅坂です。坂の名前は茶店で売っていた焼餅から来たと伝えられています。
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品濃一里塚
品濃一里塚は江戸から98番目となる一里塚で、旧東海道の道の両側に二つの塚があり、当時は榎の大木があったようですが、現在は取り払われており品濃一里塚公園となっています。
所在地:戸塚区平戸4-16-45
品濃一里塚から品濃坂を降りてを降りて戸塚宿に向かいます。
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戸塚宿
品濃一里塚から約4kmで戸塚宿の江戸方見附跡に着きます。
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戸塚宿は相模国の東端にあり、江戸から数えて5番目の宿場となっていて、日本橋を出立した旅人が一泊目を迎える宿場でした。
Googleマップで調べると、日本橋から戸塚宿の本陣までは約42kmあります。昔の人は相当健脚だったんですね。
所在地:戸塚区吉田町879
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吉田一里塚
江戸から数えて10番目となる吉田の一里塚は、国道一号線沿いにあったため明治時代に入って道路拡幅のため取り払われており、現在は写真のような看板が残されているだけです。
所在地:戸塚区吉田町 |
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国道1号線の歩道上にあるマンホールの蓋には、箱根駅伝で走る選手の姿を刻んだ絵が描かれています。
何ヶ所かで見かけましたが、下ばかり見て歩くわけにもいかないので撮ったのは数枚でしたが、家に帰って調べてみると同じものではなく少し違って造られていました。
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柏尾川に架かる吉田大橋
下の写真は、安藤広重が天保4年(1833年)に描いた東海道五十三次の戸塚を描いた絵を基にエッチング画としたもので、橋のそばに掲げられていました。
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橋の欄干には歌川国芳が描いた「東海道五十三次人物志」の戸塚の風景画があります。
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内田本陣跡
国道1号線と超五街道との交差点角近くにあるこの碑は、当時戸塚宿に二ヶ所あった本陣のうちの一つ内田本陣があったところで、現在は戸塚郵便局となっています。
内田本陣は、間口が18間、奥行きが14間であり、畳の数は152畳あったといわれています。
所在地:戸塚区倉田町509 |
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戸塚町問屋場跡
問屋場は、紅葉で旅する武士や旅人の宿泊の世話をするために設けられていたところで、「問屋役」という責任者の下に年寄、帳付け、人馬指(じんばさし)などの役人が置かれており、帳面付け、人足や馬の手配、荷物の積み替えなどの仕事をしていました。
所在地:戸塚区戸塚町3993 |
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脇本陣跡
本陣内に宿泊しきれない大きな藩や、参勤交代で移動中の藩が鉢合わせした際に格式の低い藩が利用するようになっていましたが、大名や勅使の利用がない時は一般の旅人も宿泊できるようになっていました。戸塚宿には3軒の脇本陣がぁったとのことですが、三軒の脇本陣がこの場所に固まって存在していたかどうかは不明です。
所在地:戸塚区戸塚町4125 |
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澤邊本陣跡
澤邊本陣は戸塚宿にある2軒の本陣のうちの一つで、戸塚に宿場に置くことを当時の当主澤邊宗三が、幕府に働きかけたことで働きかけた功労者でした。
また、大政奉還後の明治天皇の東下に際には行在所(あんざいしょ)として利用されました。
所在地:戸塚区戸塚町 |
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上方見附跡
江戸方見附から約2.4kmで上方(京方)見附となります。写真ではカットしてありますが、右側に松の木が植えられています。
所在地:戸塚区戸塚町2997 |
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マップ |
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