明治維新胎動の地 「萩」 |
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山口県の日本海に面した町「萩」、江戸時代には毛利氏が治めていた長州藩の城下町でした。 古くは周防の守護大名である大内氏の家臣であった吉見氏が、津和野城の出城を築いたところで、関ヶ原の戦い後の慶長13年(1608年)に、毛利輝元が松本川と橋本川に囲まれた三角州のところにある指月山(標高143m)の麓に萩城を築城し、長州藩36万石の城下町として明治に至るまで栄えていました。 幕末の激動期には、吉田松陰が私塾である松下村塾より高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、桂小五郎(木戸孝允)、大村益次郎、そして井上聞多(井上馨)達の多くの人材を輩出し、自らは安政の大獄で獄死するも、教えを受けた人たちによって明治維新から近代化日本への道を歩みだした町です。 右の写真は明治維新100年を記念して昭和43年(1968年)に建立された「明治維新胎動の地」の石碑で、揮毫は山口県出身の時の総理大臣佐藤栄作氏によるものです。 |
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松陰神社 明治23年(1890年)に吉田松陰の実家である杉家の邸内に実兄である杉民治が土蔵造りの祠を建立したのがはじまりで、明治40年(1907年)に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付していました。現在の社殿は、昭和30年(1955年)に建立されたものです。 |
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吉田松陰辞世の句碑 脱藩、密航等の罪により囚獄されていた野山獄から安政の大獄により江戸に護送され、伝馬町の牢屋敷に囚獄された吉田松陰が、処刑を覚悟した安政6年(1859年)10月20日に郷里萩の両親たちに送った書簡の中に書かれた永訣の書で、「親思う こころにまさる親心 今日の音ずれ なんと聞くらん」とあります。 松陰は書を送った7日後の10月27日に老中暗殺計画の罪により満29歳にて獄死しています。 |
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松下村塾 松下村塾は、吉田松陰の叔父である玉木文之進が天保13年(1842年)に開いた私塾で、当初は8畳一間の建屋でしたが、手狭になり塾生たちと共同で10畳半の部屋を増築したものです。 松陰も入塾し教えを請い、安政4年(1842年)より同塾を引き継いで、50名ほどの塾生を指導、幕末から明治時代初期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られており、松陰神社の境内に、幕末当時の木造瓦葺き平屋建ての塾舎が残されています。 松下村塾は、吉田松陰が囚獄された後は、久坂玄瑞を中心として活動していましたが、尊王攘夷運動が盛んになり塾は閉鎖状態となり、慶応元年に塾生の馬島甫仙により再開。甫仙が大阪移転により閉鎖となるも明治5年に玉木文之進により再度再開され、文之進が萩の変で自刃することによりまたもや閉鎖。その後松陰の実兄杉民治により明治13年から明治25年まで都合50年間教えを行っていました。 松下村塾は、平成21年(2009年)にユネスコの世界文化遺産に「明治日本の産業革命遺産」の「エリア1萩」として登録されています。 塾内に掲げられた吉田松陰と著名な塾生の写真(下の写真)左上より右へ下へ
写真はありませんが塾生としては下記の人たちがいます。
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講義室 |
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松門神社 松陰没後に杉家の敷地内に建てられた祠で松陰を祀っていましたが、明治40年(1907年)に松陰神社に、その後現在の社殿が造営されたのに伴い松門神社として門下生を祀っています。 |
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勧学堂 品川彌二郎宅に建立されていた祠を昭和60年(1985年)移築し、勧学堂としたものです。 |
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吉田松陰幽囚の旧宅 松陰の実家杉家の旧宅で、木造瓦葺きの平屋建て広さは214㎡あり、当時としては大きな建物です。 松陰は安政元年(1854年)に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に、その後萩の野山獄に幽囚されていましたが、出獄を許されたのちにこの建屋の3畳半の部屋(下右の写真)に幽囚されていました。 この旧宅は松下村塾とともに、平成21年(2009年)にユネスコの世界文化遺産に「明治日本の産業革命遺産」の「エリア1萩」で登録されています。 |
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萩反射炉 恵美須ヶ鼻造船所跡にほど近いところにある丘の上にある日本に現存する2基の反射炉のひとつ(もう1ヶ所は伊豆の韮山)で、高さ10.5mの煙突部分が遺構として残されています。欧米列強に対抗するため佐賀藩で操業していた反射炉の技術を導入して建設されましたが、規模が小さいことから実験用ではなかったかと推測されています。 平成21年(2009年)にユネスコの世界文化遺産に「明治日本の産業革命遺産」の「エリア1萩」として登録されています。 |
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宿泊したホテルの屋上から見る萩市街(右の写真で右端にある小高い山のところに萩城がありました。) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧萩藩御船倉 萩市内を流れる松本川の河口に近い東浜崎地区にあるこの御船倉は、かつて萩藩主の御座船を格納するために萩城築城後に建てられたものと推定されていて、建築当初は松本川に面して4棟の御船倉があったとのことですが、埋め立てのため移築されています。 (日の出直後の撮影ですので朝日で少し色が赤っぽくなっています。) |
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旧山村家住宅 萩市には4ヶ所の重要伝統的建造物群保存地区がありますが、浜崎地区にあるこの旧山村家住宅は、江戸時代の後期のもので、2棟の主屋、2棟の土蔵、離屋からなる「表屋造り」の様式で建てられています。 「表屋造り」とは、京都に多く見られる町屋の形式で、道路に面した部分に店舗、その奥に居住用の建物を別々の棟として建て、間を中庭で隔て玄関棟でつなげています。 |
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野山獄跡(下左)と岩倉獄跡(下右) 萩藩の牢獄で、野山獄は士分を収容する上牢、岩倉獄は庶民を収容する下牢として区別していました。 藩士禄高200石の岩倉孫兵衛(右の岩倉獄のところに住んでいました。)が酒に酔って道路反対側の野山六右衛門宅(左の野山獄のところに住んでいました。)に押し入り、家族を殺傷する事件が天保年間に発生。藩は野山宅に岩倉を幽閉したのちに斬首の刑に処し、喧嘩両成敗という裁きで両家を取り潰し、屋敷を取り壊して牢獄としたものです。 この野山獄には嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結のために再航した際に旗艦ポーハタン号にて海外密航を企てて失敗した吉田松陰が投じられ、岩倉獄には従者だった金子重之助が投じられました。松陰は一度は出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となり、その後老中間部詮勝暗殺計画の容疑で再度収監され、その後江戸は伝馬町の牢屋敷に囚獄されることとなりました。 維新間近の文久・元治年間には高杉晋作をはじめとする志士たちの多くが幽閉され、そのうちの一部の人たちはここで獄死しています。 |
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二の丸中濠と左奥の小高い石垣のところが天守があったところです。 |
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手前は橋本川の水を迂回させて造られた萩疎水(指月川)、奥の指月山の麓には二の丸の潮入門と復元された銃眼土塀があります。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 厚狭毛利家は毛利元就の五男元秋を祖として、長門厚狭(現 山陽小野田市)に10500石の知行地を与えられたのが始まりで、萩屋敷全体では約1万5500㎡におよぶ敷地がありましたが、現在残っているのは長さ51.5mもある長大な入母屋造り本瓦葺きの建物となっています。この建物は国の重要文化財に指定されています。 |
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城下町の江戸屋横町 萩往還から萩城に至る道筋は御成道と呼ばれていますが、その中で呉服町の一帯は江戸時代の町筋をそのまま残しており、この江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横町に囲まれたところは、世界遺産の明治日本の産業革命遺産の「萩城下町」を構成しています。 江戸屋横町は板塀の続く街並みとなっており、通り沿いには円政寺、木戸孝允の旧宅、青木周弼の旧宅などがあります。 |
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円政寺 鎌倉時代の建長6年(1254年)に当時周防守護職であった大内氏の祈願寺として現在の山口市に創建された寺ですが、毛利氏との戦いに敗れて滅亡した後の慶長9年(1604年)に毛利元就が萩城を築城するのと同時に萩城下に移転して毛利氏の祈願寺となりました。 この写真見てなんか変だと思いませんか? そうですお寺なのに参道には神社で見かける鳥居があることです。寺の境内には金毘羅社の社殿がある神仏習合(神仏混淆)となっています。明治に入ってから神仏分離令により神社と寺院を分離してそれぞれ独立させましたが、ここ円政寺は全国でも珍しい神仏習合の形態が今でも見られる点で貴重な遺構です。 |
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木戸孝允旧宅 維新の三傑と呼ばれた木戸孝允、旧姓桂小五郎は、藩医和田昌景の長男として天保4年(1833年)に生まれ、7歳の時に禄高150石の藩士桂九郎兵衛孝古の末期養子となり、松陰塾で山鹿流の兵学を学んだ後に20歳の時に剣術修行を許され江戸に出るまで暮らしていました。 慶応2年(1866年)に藩主毛利敬親から「木戸」姓を賜ったのちに、坂本龍馬仲介のもとに西郷隆盛、大久保利光らとともに薩長同盟を結び、明治維新に協力し、五箇条の御誓文の起草に携わり廃藩置県などの推進に功績を残しましたが、明治10年(1877年)西南戦争の時に明治天皇に随行して京都へ出張した際にかねてより患っていた病気に死亡。享年45歳でした。 |
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青木周弼(あおきしゅうすけ)旧宅 享和3年(1803年)に医師青木玄棟の長男として生まれた青木周弼は、漢方内科の医師である能美友庵に学んだ後に、江戸に出て蘭方医坪井信道に師事、更に長崎でシーボルトに師事したのちに長崎で開業しましたが、その後萩に戻って藩医となり、嘉永元年(1848年)に13代藩主毛利敬親の信任を得て侍医となりました。 高杉晋作が疱瘡に罹った時にこれを診療したといわれており、藩の医学館である好生堂の創設ににかかわって後に館長を務めており、周弼の洋学の知識は幕末の藩政改革に生かされたということですが、文久3年(1863年)に61歳でなくなっています。 |
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菊屋家住宅 御成道に面したところにあるこの菊屋家は、大内氏に随身して摂津より山口に移住。大内氏滅亡後刀を捨てて町民となり、萩城築城の際には街づくりに貢献し藩の御用達となったもので、約2000坪ある敷地に建てられている屋敷は江戸時代初期に建築されたもので、400年の歴史があって、主屋、本蔵、金蔵などの5棟が国の重要文化財に指定されています。 |
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菊屋横町 左のなまこ壁は、菊屋の本屋から米蔵に続いており、白壁がまぶしく感じられる道です。その先には高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地などがあります。 この菊屋横町は「日本の道100選」に選ばれています。 |
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田中儀一生誕地 長州閥最後の総理大臣であった田名儀一は、元治元年(1864年)に萩藩の下級武士である田中信祐の三男として生まれ、13歳の時に「萩の乱」に参加。 20歳の時に陸軍に入って日清戦争に従軍、その後ロシアに留学、日露戦争では満州軍参謀を務め、原(原敬)内閣、第2次山本(山本権兵衛)内閣では陸軍大臣となる。 昭和2年(1927年)に第26代総理大臣就任、昭和3年(1928年)に発生した張作霖爆殺事件の事後処理を巡って昭和4年(1929年7月に)引責辞任。辞任3か月後の9月28日に急性心不全で死去。時に65歳でした。 |
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ツアー参加での萩訪問、見るところは多いですがわずか半日の滞在では回りきれません。機会があれば今回回りきれなかったところを訪れてみたいと思います。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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