箱根関所跡と箱根神社

東京中野で生まれ、神奈川に移住して既に50年以上となりますが、小学校の卒業旅行で箱根に来て以来、しっかりと箱根を観光した記憶がありません。梅雨も明けて天気もいいので、箱根関所跡と箱根神社を観光することにしました。
 
 
曽我兄弟の墓

箱根湯本から箱根関所跡に行くためバスに乗っていたところ、車内の行き先表示に曽我兄弟の仇討ち事件で知られる、「曽我兄弟の墓」というバス停があるのを見つけました。
当然途中下車です。
墓は、バス停で下車したすぐそばにあり、三基の五輪塔があります。左側の二基は兄弟の五輪塔で、右側は虎御前の五輪塔です。
日本三大仇討ちの一つに上げられる曽我兄弟の仇討ちは、鎌倉時代の建久4年(1193年)に、富士の裾野で源頼朝が行った大巻き狩りの際に、、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討った事件です。
虎御前は、鎌倉時代の遊女で祐成の妾(妻ともいわれています。)で、仇討ち事件には関与していませんが、事件後に描かれた『曽我物語』や『吾妻鏡』に登場していることからその名が知れています。
 
      



箱根関所跡

箱根に関所が設けられた時期は定かでないようですが、平安時代には箱根峠を経由する箱根路に、足柄峠の関所とともに設けられていたようです。
関東防備のため箱根路に関を設けたことは、南北朝時代の康暦2年(1380年)に円覚寺文書に、関所を設けて寺の造営料に充てたと記されているようです。
現在芦ノ湖のそばにある箱根関所は、江戸期に入ってすぐの元和5年(1619年)に徳川幕府によって日本全国53か所に設けられた関所のうちの一つで、江戸に至る東海道に設けられました。
 
     
 
   
  京口御門

関所には京都側に「京口御門」、江戸側に「江戸口御門」があります。
関所は一日中開いているのではなく、明け六つ(現在の午前6時頃)に開門して、暮れ六つ(現在の午後6時頃)に閉門していました。このため関所を通る旅人は、京側は三島宿に、江戸側は小田原宿に宿泊し、朝一番で宿を出て山を登ってきて関所を通過するようにしていました。
御門の前は大きな広場となっていて、関所にきた旅人が、関所改めを受ける順番を待つところとなっていて、「京口千人溜り」と呼ばれていました。
   
 
 




厩(うまや)

厩には馬を5頭繋げることができるようになっていたようですが、実際には2頭しか置かれていなかったとのことで、空いた場所は納屋兼用となっていて、掃除道具などが収納されていました。
 
      




上番所下雪隠

雪隠(せっちん)という言葉は、現在ではほとんど使われない言葉で、「厠」と同じ意味であり、「便所」のことをいいます。
 
      
 
   
  大番所・上番休息所
大番所は、小田原藩から出向してきた役人が、面番所と呼ばれる部屋に詰めており、関所を通る旅人を改める関所の中心となっていました。
 
 
 
 
 
  大番所には「次の間」あるいは「番士詰所」とも呼ばれた「面番所」があり、番士や定番人が詰めていました。
番士は旅人が持つ通行手形が本物かどうか改めたり、旅人から行き先、目的などをいろいろ聴取して記録していました。また、ここには人見女も控えており、関所を通る女性専門で調べを行っていました。
 
 
 

人見女

女性が関所の外側(地方)に出る際には女手形を提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて、手形に記された幕府留守居の印鑑が真正であるかを確認していました。
女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていました。
特に箱根の関所での改めは厳しく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)が常駐し、出女の監視を行っており、髪の毛の有無や身体的特徴、ほくろや妊娠の有無などについてまで吟味されていたといいいます。
更に女による男装の疑いがある時は、男に対しても同様の検査が行われたとされいます。これは通行手形の発行手続が男の方が容易であり、女が男の振りをして手形の発行を受ける可能性があったからでした。
なお、幕府は伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があり、これを受けた者については、予め幕府が身元を確認したものと看做して、より簡単な手続で済まされる例もありました。

また、江戸への鉄砲の持ち込みは禁止されており、「鉄砲手形」を関所に提出させて、関所にある判鑑と老中の印鑑が真正であるかを確認していました。
 
      
 
   
   
 




足軽番所(上)と獄屋(右)

足軽番所は、江戸口御門のそば、大番所の向かい側にあって足軽の控え所となっており、夜間は休息所や寝所として使われていました。足軽番所に併設されているのが獄屋で、関所破りをした罪人などを拘置するところとなっており、造りは牢破りをされないよう厳重な造りとなっていました。
 
      
 
 




井戸

平成13年に行われた関所内の調査で、井戸の木枠が発見され、木枠を復元したところ平成19年に井戸が復活。依頼枯れることなく一定の水位を保っていることから「復活の井戸」と呼ばれているようです。
  
 
      
      
  遠見番所
関所の中で一番高いところにあるのが遠見番所です。
芦ノ湖や街道沿いを一望できる位置にあり、足軽がここで昼夜を問わず交代で見張りを行い監視していました。左写真の石段は当時のままです。
 
 
   
  遠見番所まで上がると関所が一望できます。
 
 
   
  江戸口千人溜りから見る江戸口御門
 
 
   
     
  関所跡を出て、旧東海道の箱根杉並木経由で箱根神社まで歩きます。
 
 
   
  箱根八里の歌碑
歌碑は、箱根の関所跡からのところ関所通りを箱根神社方向に向かって歩くとすぐのところにある恩賜箱根公園内にあります。
「箱根の山は天下の嶮・・・・」で始まるこの歌は明治34年(1901年)に発表された歌で、鳥居忱(とりいまこと)が作詞し、滝廉太郎が作曲し「中学唱歌」として発表されました。私も子供時代に歌った記憶がありますが、最近の小中学校ではこのような歌が歌われるのでしょうか。
 
 
   
 



箱根杉並木

関所から歩いて約300mのところから旧東海道道の両側約550mの間に箱根杉並木があります。
旧東海道が設けられた江戸時代に幕府がここを行き来する旅人に涼を与えようとの配慮で設けられたもので、東海道の中ではここだけしか作られなかったとのことです。
現在は合計420本もの杉が残されており、国の史跡に指定されています。
   
          
 
   
     
 
 


葭原久保の一里塚

杉並木の江戸側には「葭原久保の一里塚」と名付けられた一里塚の碑があります。
徳川幕府は、所務奉行(後の勘定奉行)として大久保長安を任じ、交通網の整備を行わせましたが、長安は一里塚の建設を行い、里程標を整備したもので、この一里塚は日本橋から24番目の一里塚です。
 
      
 
   
  元箱根港
港からは芦ノ湖遊覧の観光船が定期的に出港していますが、三本マストの海賊船風の「ビクトリー」、「ロワイヤルII」、「クイーン芦ノ湖」が人気を呼んでいます。
 
   
  箱根神社の第一鳥居
港のそばにあるこの鳥居のところで、旧東海道(国道1号線)は右に曲がります。直進すると箱根神社となります。 
 
   
  賽の河原
元箱根港のそばにあるこの賽の河原は、地蔵信仰の聖地として、東海道を旅する人たちの信仰を集めたところで、多くの石仏や石塔がありました。
しかしながら、明治時代に入って廃仏毀釈により破棄されたものが多く、その後の観光開発の影響もあって規模は縮小し、現在のようになりました。
 
 
     
  湖岸からは鳥居が望めます。「平和の鳥居」と名付けれたこの鳥居岸辺ではなく、湖の中に建てられています。
 
 
   
  箱根神社

第三鳥居を抜けると神社の境内です。参道は緩やかな上り坂となっています。
箱根神社は、第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、神仙宮として開山したのが始まりと伝えられており、かつては箱根権現、三所権現とも称されていました。
 
 
 




矢立の杉

第四鳥居の前にあるこの杉の木は樹齢が1200年を超えるといわれる御神木で、桓武天皇から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、延暦20年(801年)に東北鎮撫に向かう際に、箱根神社を参拝。「表矢」を献じて戦勝祈願を行い、その結果東北平定を果たしたといわれています。
その後の武将たちも箱根間の山を越える際は表矢を神前に献上して戦勝を祈願したといわれています。
 
      
 
 
 


曽我神社

曽我兄弟の孝心を称えて、正保4年(1647年)に
小田原城主の稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営下のが始まりとなっており、平成5年(1993年)に、仇討本懐後800年の威徳を偲んで拝殿を造営しなおしたものです。
   
      
 
 
御本殿
御本殿は拝殿、幣殿と一体で、権現造り建てられています。
 
 
 
九頭竜神社の新宮
龍神湖水の祭に因んで建立された新宮で、湖畔にある本宮より遷宮して鎮祭されています。
 
 
   
  芦ノ湖の湖上に建てられているこの鳥居は、昭和27年(1952年)に講和条約が締結されたのを記念して建立されたものです。
鳥居には昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックの奉祝記念として、講和条約締結時の全権大使であった元首相の吉田茂が揮毫した「平和」の扁額が掲げられており、「平和の鳥居」呼ばれています。

 
 
     
   
   
        トップページに戻る        旧東海道保土ヶ谷宿と戸塚宿を見る