豪徳寺と松陰神社
 
 
豪徳寺
 
小田急線の豪徳寺駅を降りて約7分のところにある大谿山豪徳寺、中世の時代は奥州吉良氏の居館である世田谷城があったところで、豊臣秀吉の小田原征伐の際に城は廃城となったところにあります。寺は世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母である広徳院の菩提のために、「広徳院」と称する庵を結んだのがはじまりとされており、当初は臨済宗の寺院でしたがその後曹洞宗に転じていました。
江戸時代の寛永10年(1633年)に、時の彦根藩2代藩主の主井伊直孝が、菩提寺として伽藍を創建整備し、直孝の法号「昌院殿豪徳天英大居士」より豪徳寺と改号しました。
寺には招き猫発祥の地という説があり、直孝が猫により招き入れられたという説が残されており、「招き猫」発祥の地とされています。

寺の前の参道は山門までわずか80m足らずですが、松並木の参道となっており、世田谷区の「風景づくり活動団体」が手入れを行っていて、趣きのある参道となっています。
 
       
三門
 
松並木を過ぎると「碧雲閣」と書かれた扁額のかかる山門があり、その左脇には「都史跡 井伊直弼墓」と刻まれた石碑があります。
     
 

 
三重塔
 
平成18年(2006年)5月14日に落慶法要が営まれたという総高22.5mの三重塔です。
樹木を入れずに撮ろうとしても周りに囲いがしてあり、これが精いっぱいです。
   
 
       
鐘楼
 
鐘楼の梵鐘は、延宝7年(1679年)に近江大掾藤原正次、通称釜六によって制作されたもので世田谷区指定有形文化財となっています。
   
   
仏殿
 
井伊直孝の娘・掃雲院が父の菩提を弔うため延宝5年(1677年)に寄進して建立された仏殿で、掃雲院が禅宗のひとつである黄檗宗に帰依していたことから黄檗宗の建築様式が随所に見られます。(世田谷区の指定有形文化財)
   
     
戦災で焼失し、コンクリート造りで再建された本堂    
    
無名戦士慰霊記念碑
 
碑には、日本大学教授で最後の国学者といわれる山田孝雄が詠んだ
「いくさの旅に  さまよい果てたる  はらからよ  ここにかえりて  やすらいたまえ」
の歌碑が刻まれており、
 
裏面には

燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない この記念碑が人々の情で生まれたからといって永遠の平和がきたのだともいえない けれども深い憂と悲しみの中にたをれた不幸な同胞の御霊の冥福と 祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつづけたい。区内戦没者五千三百余柱の御霊並びに九十三柱の御遺骨の供養のために有志相はかり 区民多数の心からなる浄財を集めて慰霊紀念碑を建立した次第である。
                                                                 昭和二十九年五月三日

とあります。 
  
 
        

   
松福庵
招福庵とも呼ばれ、招き猫発祥の地とのことで、庵の横には願いが叶った人が奉納した招き猫が大小さまざまな大きさで奉納されています。何体あるんでしょう。
 
   
     
井伊家墓所
 
寺の境内の奥まったところには井伊家の墓所があり、入り口には国指定史跡彦根藩主井伊家墓所と書かれた墓所の案内図があります。
案内図を見ると、豪徳寺を開基した2代直孝をはじめ13代直弼と歴代の藩主と正室の墓所があると記されています。

   
       
井伊直弼の墓

13代井伊直弼は徳川幕府末期に大老を務め、日米修好通商条約を無勅許で調印、これに反対する多数の志士(吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎など)や公家・皇族達を安政の大獄により粛清しましたが、安政7年(1860年)3月3日5ツ半(午前9時ごろ)外桜田の屋敷(現在の国会前の前庭公園と憲政会館広場付近)から桜田門外杵築藩邸付近(現在の警視庁付近)に差し掛かった際、水戸脱藩浪士達に襲撃され(桜田門外の変)44歳でこの世を去っています。
(墓は墓所に入って左奥にあります。)

因みに世田谷区と東京工業大学が墓の下3mまで調査したところ石室がないことが判明したようですが、どこにあるのか解明する予定が無いとのことです。
    
 
     
世田谷城址
 
豪徳寺から歩いてすぐのところにある世田谷城址公園はかつて世田谷城があったところで、昭和15年(1940年)に開園した世田谷区唯一の歴史公園で、昔のおもかげを残す土塁や空堀跡が残されています。
   
     
松陰神社
 
 
東急世田谷線の松陰神社前駅から歩いて約4分、井伊直弼が眠る豪徳寺からでも約10分強のところにある松陰神社は、吉田松陰が眠る神社です。
吉田松陰は安政の大獄により、伝馬町の牢屋敷で安政6年10月27日(1859年11月21日)に斬首刑に処せられ、その4年後の文久3年に吉田松陰門下の、高杉晋作、伊藤博文等によってこの世田谷若林の地に改葬されていました。
明治15年(1882年)に松陰門下の人々により墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座をしたのが松陰神社の始まりです。

   
     
社殿
 
鳥居を通り抜けると参道の奥に社殿が見えてきます。現在の社殿は昭和3年(1928年)に造営されたものです。社殿に向かって右側には萩の松下村塾に模して造られた松下村塾がありますが、現在は修復中で覆いがしてありました。
   
     
松陰神社道の道標
 
松陰神社の南を通る現在の世田谷通りは、矢倉沢往還又は大山道とも呼ばれていて、明治45年(1912年)に乃木希典の寄進により建立されたものを世田谷通りの拡幅工事で境内に移転したものです。
      徳富蘇峰植樹の碑
 
徳富蘆花の兄である徳富蘇峰が自身の著「吉田松陰」発刊を記念して植樹した際に碑を建立したとあります。
  
 
     
木戸孝允寄進の鳥居
吉田松陰の墓所の入口にある石鳥居は、墓所修復の際に木戸孝允(桂小五郎)が寄進したもので、鳥居には。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれています。
   
     
徳川家寄進の石灯籠と水盤
墓前の両側にある一対の石灯籠は、幕府が破壊した吉田松陰の墓(後方)を木戸孝允たちが修復。これを伝え聞いた徳川家が謝罪の意味を込めて石灯籠と水盤を寄進したものです。
吉田松陰の墓には中央に吉田松陰があり、吉田松陰と同じく安政の大獄で刑死した頼三樹三郎(頼山陽の3男)と、鷹司家の家士で安政の大獄に連座して獄死した小林民部小輔、長州藩士の来原良蔵、福原乙之進、綿貫治良助たちの墓があります。
   
      
吉田松陰の墓と吉田松陰像
墓石には「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれています。右側の像は神社境内に入って参道の中央付近の右側にあります。
     
 
   
世田谷代官屋敷

東急世田谷線の世田谷駅または上町駅から歩いて約5分のところ、ぼろ市通りに面してあるのがこの世田谷代官屋敷です。(世田谷区立郷土資料館併設)
この代官屋敷は江戸時代中期以降に、この地の名主で、彦根藩井伊家の世田谷領20ヶ村の代官を世襲していた大場家の住宅兼役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれていました。
大名領の代官屋敷としては都内に現存する唯一のもので、都の史跡に指定されており、表門と大場家住宅の主屋が近世注記の代表的上層民家としての旧態を保存しているとのことで重要文化財に指定されています。
   
     
   
     
お白洲(お白州)跡
お白洲とは、時代劇でよく町奉行所で奉行が罪人に裁きを行う場面が出てきますが、このお白洲も、大場家が代官の任を以て村内の治安維持にあたっていたことがわかる遺構として残されています。
   
     
 
 
     
     
     
     
     
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