プロヴディフ トラキア地方の中央部にあるプロヴディフはブルガリア第2の都市で、その歴史は新石器時代までさかのぼることができるようで、紀元前4千年前の住居跡も発見されています。 紀元前4世紀にマケドニアの支配下に入ったこの街は「ピリッポポリス」と改称され後に、トラキア人の手にわたると、トラキア語の「プルプ=デヴァ」と呼ばれるようになったとのことです。 ローマ帝国の支配下に入ると街の名前はトリモンティウム(「3つの丘の街」の意味)と呼ばれるようになり、発展を遂げた街には競技場や議事堂などが建設され、それらのいくつかが現在も街に残っています。 プロヴディフ呼ばれるようになったのはオスマン帝国支配化の14世紀の終わりごろで、街はブルガリア民族復興運動の中心地となりオスマン帝国の重要な経済拠点として発展し、この時代の裕福な市民の家々が今でも旧市街に残されています。 |
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ホテルの窓から見るプロヴディフの街並み マリツア川越しにプロヴディフ旧市街の街並みが見えます。川には屋根のある橋がかかっています。日本でいう「さや橋」のようなものでしょうか、早速行ってみることに。 |
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橋の中はごらんのように商店街になっていて、衣料品関係の店が多く入っています。朝早い時間(午前6時過ぎ)とあって、まだどの店も閉まっていますが。現地ガイドさんに橋の名前を聞くと単に「屋根のある橋」と呼んでいるとか。 | ||||||||
朝食後の7時50分旧市街の観光スタートです。旧市街はローマ時代の2世紀頃に作られた城壁で囲まれ、今でもその一部が残されており、この地域は建築・歴史保存地区として指定されています。また、この文化財の修復・保存のため日本のユネスコ文化遺産保存日本信託基金から資金援助が行われているとのことです。 | ||||||||
ヒサル・カピヤ ローマ時代に造られたもので唯一現存する要塞門です。 |
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ゲオルギアディの家 民族復興期の1848年に、時の富豪ゲオルギ・ケンディンデノルグの家として建てられた、3階建て780uの大きな建物で、娘がデメトリス・ゲオルギアディと結婚する際に、持参金の一部として贈られたとか、うらやましいですね・・・ この建物は現在ブルガリア民族復興博物館として1階と2階が公開されています。 |
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聖コンスタンティン・エレナ教会 ヒサル・カピアの南側にあるこの教会は、19世紀の半ばに建てられたブルガリア正教の教会で民族復興期に描かれたイコンも残されていますが、内部は撮影禁止です。 |
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ボヤジェフの家 19世紀に医者の家として建てられたもので、その後、画家のズラテュ・ボヤジエフがこの地で創作活動をしていたとのことです。 |
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ラマルティーヌの家 1830年にギリシャ系商人の家として建てられ、1833年にフランスの政治家であり詩人でもあるアルフォンス・ド・ラマルティーヌが、3日間だけ滞在したこともあるとのことから、こう呼ばれているようです。 |
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ローマ劇場 紀元2世紀の初め頃にローマ帝国のトラヤノス帝により建てられたもので、2つの丘のあいだに挟まれた鞍部にあり、南面には3階建ての舞台を持ちれ7000人の収容能力を持っており、現在では各種のフェスティバル催し物が開催されています。 |
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円形競技場 新市街と旧市街の境にあるジャマヤ広場にあるこの競技場、地下に埋もれているように見えますが、この競技場も円形劇場と同時期に、丘の間にギリシャのデルフィの競技場に倣って造られたもので、当時いくつもの闘技が行われていたとのことです。 |
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ジュマヤ・ジャーミャ ジャマヤ広場に面したところにある14世紀に建てられたイスラム教のモスクで、ヨーロッパ最古のモスクのひとつです。 |
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旧市街の中にもこんなモダンなアートが描かれた家もあります。左はモザイクタイルで造られてており、右はキュビズムという抽象画とか | ||||||||
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新市街のメイン通りであるアレクサンダル・バテンベルグ通り |
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