横須賀まちあるき その4
 
 
   
  国道16号線からどぶ板通りに曲がるところにある複合文化施設の建物の入口そばに置かれたこの碑は、かつて軍港の街であった横須賀海軍工廠に勤務する海軍の下士官兵の集会所兼宿泊施設があったところです。
 
 
 
 


どぶ板通り

横須賀中央駅からほど近いところを通る国道16号線と並行し、全長が約300mほどの商店街が「どぶ板通り」と呼ばれています。
横須賀の代表的な観光地の一つであるこの通りは、第二次世界大戦前には通りの中央をどぶ川が流れていて、走行の妨げになるとのことで横須賀海軍工廠より鉄板を供給してもらい蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになりました。今は当然のことですがどぶ川も鉄板も撤去されていますが、通りの名はそのまま残されています。
戦前は海軍工廠の門前町として栄え、戦後今は死語となったは進駐軍の兵隊向けのお土産屋さんが立ち並び、米軍軍人の依頼で始まったジャンパーに入れる和風の刺繡が評判を呼び、「スーベニルジャケット」、「スーベニアジャケット」として」と呼ばれるようになり1960年代には「スカジャン」と呼ばれるようになりました。

 
   
   
  どぶ板通りのレリーフ
 
 
 
     
通りには有名人の手形のレリーフが埋め込まれています。
写真は左から横須賀生まれの女優田島令子、同じく横須賀生まれのシンガーソングライター渡辺真知子、右端が東京生まれのジャズトランぺッター日野皓正の手形です。
 
 
   
   
   
     
   
  ヴェルニー公園
横須賀港に面したところにあるこの公園は、開園が戦後すぐの昭和21年(1946年)で、当時は「臨海公園」と呼ばれていましたが、横須賀造兵廠やその他の近代施設の建設を指導したフランス人技師レオンス・ヴェルニーの名をとって「ヴェルニー公園」と改称されたものです。
この公園のある横須賀港周辺地区は、平成12年(2000年)に都市景観100選に選らばれ大賞を受賞しています。
 
 
 
 


正岡子規の文学碑

明治時代の俳人正岡子規が、明治21年(1888年)の夏に友人と球果を利用して鎌倉・横須賀を訪れた際に、横須賀港内に連なる船の帆墻(はんしょう=帆柱)を見て詠んだ「横須賀や只帆墻の冬木立」の句が刻まれています。
 
 
 


軍艦長門碑

大正8年(1920年)に竣工した大日本帝国海軍の軍艦長門は、基準排水量39,120トン、全長224.94mあり、最大速力は25ノットと、春興児は世界最大、最速の軍艦でした。
碑には長門の姿のレリーフ像と小説家阿川弘之の撰文による「ありし日の 連合艦隊旗艦長門の 姿をここに留めて 昭和激動の時代を 偲ぶよすがとする」の文が大戦時海軍中将であった新見政一の書で刻まれています。

長門は大戦終結時に唯一航行可能な戦艦でしたが、昭和21年(1946年)7月29日の未明に横須賀港を出港し、太平洋のビキニ環礁で実施された原爆実験「クロスロード作戦」の標的艦とされ、二度の核爆発を受けて沈没しました。

 
 
 

国威顕彰記念塔

巡洋艦高尾型の艦橋を模して造られた記念塔ですが、正面には「国威顕彰」と今の若い人たちは聴いたこともない言葉が刻まれています。
この記念塔は他の碑が近年に建立されたのに比して第二次世界大戦がはじまる以前の1930年代前半に建立されたものであり、当初はここから西北に300m程離れたところにある逸見波止場衛門近くにあったものを横須賀市が他の碑と並べるように移動したとのことです。
碑の中央部には建立時にあったものがすべて剥ぎ取られています。刻まれた言葉が今の時代にそぐわないと判断して取ったのでしょうか。
1930年代前半は、満州事変(1931年)、五一五事件(1932年)、国際連盟脱退(1933年)、軍縮条約破棄(1934年)、二二六事件(1936年)など世の中に不穏な事件が続いていたときであり、もし剝ぎ取られたものが今の世の中にはそぐわないものがもしれませんが、歴史を残すことではそのまま置いてほしいものです。
碑の奥には「軍艦山城之碑」がありますが、碑に刻まれている碑文の文字があまりにも小さくて細いため殆ど読めません。調べると平成7年(1995年)に建立されたとのことですが、わずか30年にも満たない年月でこのような状態になるとは、もう少し考えて造ってほしいものですね。
 
 
   
   
  海軍の碑
平成7年(1995年)に建立されたこの碑は、碑の中央にある建立趣意によると、明治維新後この地に置かれた海軍が、第二次世界大戦終結後その歴史を閉じて50年に至る節目の年に、海軍の歴史と亡くなられた人々を偲びつつ、永久平和を希求するため建立したとあります。
 
 
   
  ティボディエ邸
真新しいこの建物、1ヶ月ほど前に新築オープンしたもので、元は横須賀製鉄所副首長のジュール・セザール・クロード・ティボディエの官舎として明治2年(1869年)頃ろに建てられた本州で最古級の西洋館がありました。老朽化のため平成15年(2003年)に解体されましたが、この度再建され「横渚近代遺産ミュージアム」として日本近代化の礎となった横須賀製鉄所の歩みを紹介しています。
 
 
   
  天井にある梁は旧邸宅を解体した時に保存したもので、復元展示されています。
 
 
   
  明治18年(1883年)に出版された当時の横須賀の街の明細一覧図です。
 
 
 
   
開港碑
昭和28年(1953年)に、横須賀商工会議所により建立されたものですが、わずかに「開港碑」の文字が読み取れるだけです。
 
  フランソワ・レオンス・ヴェルニー像
慶応元年(1865年)に徳川幕府の要請により横須賀造船所の責任者として来日し、維新後も観音埼灯台の建設や技術学校を創設して日本の近代化に大きく貢献した人です。
 
  小栗上野介像
幕末の幕臣で、安政7年(1860年)に万延元年遣米施設の一員として渡米したほか、勘定奉行、海軍奉行などを歴任、ヴェルニー支援の下で横須賀製鉄所の建設にあたる。
大政奉還後には薩軍と徹底抗戦すべしと主張して領地である上野国権田村で斬首される。
 
 
   
  逸見波止場衛門
この衛門は昭和4~5年(1930年)頃に建造されたもので、正式名称は「海軍番兵塔・軍港正門門柱」といい横須賀軍港の正門となっており衛兵の詰め所でした。右側の詰所には「軍港逸見門」、左側には「逸見上陸場」と標示されています。
 
 
   
  ヴェルニー記念館
横須賀製鉄所建設にあたったヴェルニーの功績をたたえ、横須賀製鉄所の意義を解説する目的でに建てられたもので、建物の外観はフランスのブルターニュ地方の住宅を模しています。
 
 
 
 
館内には、国の重要文化財に指定されている、オランダから明治元年(1866年)輸入された巨大なスチームハンマー2基が展示されています。
左のハンマーは「片持ち形」で、右のハンマーは「門形」というようです。両方とも国の近代化産業遺産に登録されいます。
 
 
     
  戦艦陸奥の模型
長門型の戦艦陸奥は大正10年(1921年)に竣工した排水量39,050トン、全長224.94m、最大速力25.28ノットの戦艦でここ横須賀海軍工廠で建造され、供えていた40cm砲搭載戦艦が当時世界に7隻しかなかったことから『世界七大戦艦』と呼ばれていたとのことです。
陸奥は第二次世界大戦中にミッドウェー作戦などで出動しましたが交戦はしなかったといい、昭和18年(1943年)6月8日に瀬戸内海の柱島沖で原因不明の爆発により沈没しました。
 
 
   
  戦艦陸奥の主砲
全長19m、重さ約100トンあるこの45口径41cmの主砲は、現存する日本海軍の遺産の一つで、品川にある「船の科学館」から平成30年(2017年)に里帰りして展示されています。
 
 
  地図を見ると三浦按針の墓が按針塚駅から近いところにあることがわかり寄ってみることに。
 
 
 
 


塚山公園

京浜急行の安針塚駅から歩いて約15分のところにある塚山公園、結構急な上り坂を登り切ったところにある公園で、「神奈川の景勝50選」にも選ばれており、春には桜の花見でにぎわう場所でもあります。
園内には徳川幕府に外交顧問として仕え旗本として取り立てられたウィリアム・アダムズ夫妻のお墓があります。
 
 
 
   
  中央広場(奥にあるのは休憩所)
 
 
   
  展望デッキからは靄で霞んでいますが、左奥に横浜、右奥に横須賀港が見えます。
 
 
 



オカトラノオとキオビツチバチ

オカトラノオ(丘虎の尾)はサクラソウ科の多年草の植物で、6月から7月にかけて白色の小さな花を先端が虎の尾のように垂れ下がって咲きます。
キオビツチバチとは聞きなれない名前ですが、ツチバチ科の蜂で黒い体に黄色い斑紋があり、コガネムシの幼虫(芋虫)の体内に寄生して育つということで、ほかの蜂のように巣を作ることはしないようです。に
 
 
 
 
安針(按針)塚

安針とは三浦按針のことをいいます。三浦按針は、1564年に生まれたイギリス人で、本名をウィリアム・アダムスといい、ロンドンで造船工として働いた後に海軍に入隊して経験を積み、軍を離れて航海士、船長として各地を巡った後にロッテルダムから極東を目指す船団の航海士として乗船。5隻の船団のうち1隻だけ残ったリーフデ号が豊後臼杵の黒島に漂着したのは1600年4月29日(慶長5年3月16日)のことでした。
当時日本は関ケ原の戦い前で、豊臣秀頼配下の五大老であった徳川家康が引見後、江戸に招き帰国を願うアダムスを慰留して外国使節との交渉や通訳としてあたらせ、250石取りの旗本として取り立て帯刀を許され、相模国逸見の地を領地として与えられ三浦按針の名を与えられました。
その後イギリス船が交易を求めて来航した際に帰国のチャンスもありましたが、そのまま留まりイギリス商館の手伝いを行い鎖国体制となったのちには天文官の仕事のみを行い、元和6年4月24日(1620年5月16日)に長崎県の平戸で55歳で亡くなりました。
ここ逸見は按針の領地であったこともあり、按針の「我死せば、東都を一望すべき高敞の地に葬るべし、さらば長く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉蘭」と按針の言葉従ったとのことです。
ここでは毎年4月に按針の遺徳を偲んで祈念式典が行われています。
 
     
 
   
  三浦按針夫妻の墓
宝篋印塔で建立されている二基のお墓は、右側が按針の墓で凝灰岩で設けられており、左側のお墓は安山岩で設けられた妻お雪(マリア)の墓となっていますが、妻お雪の出自等詳しいことは判っていません。
墓は明治38年(1905年)に修復されていますが、その際に毛髪等の遺物が確認されたことから墓と断定されたとのことで、大正12年(1923年)に国の史跡に指定されています。
 
 
     
     
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