矢切の渡し(2016.02.28撮影)
 
江戸川に今も残る矢切の渡しを訪ねてみました。地図で調べると松戸側に「野菊の墓文学碑」があるので北総線の矢切駅で降りて歩きはじめました。
因みに「矢切の渡し」は「やぎりのわたし」と読みますが地名や駅名は「やきり」です。  
 
        
水上勉旧居跡の碑
北総線矢切駅を降りてすぐの駅の敷地内にあるこの碑は、「雁の寺」、「越前竹人形」、「飢餓海峡」、「金閣炎上」など多くの作品を遺した作家水上勉が、昭和32年9月から34年10月まで過ごしたところです。
(北総線は昭和47年操業開始)
 
   
矢喰村庚申塚
この地は戦国時代には北条市と国府台合戦の戦場となり多くの戦死者を出した場所で、庚申塚の由来碑ではこの地に住んでいた人たちも被害を受け、矢の飛び交うことことを嫌って、「矢切り」、「矢切れ」、「矢喰い」の名がつき、庚申塚と地蔵尊を建立し戦乱のないよう願っていたとなっています。
 
   
野菊の墓文学碑
「野菊の墓」は、伊藤左千夫が明治39年(1906年)に雑誌「ホトトギス」に発表した小説で、ここ矢切が舞台となっており、矢切の渡しは小説の中で主人公の正夫と民子の別れの場となったところです。
この文学碑は門人である土屋文明が揮毫し、小説の一節が刻まれています。
矢切駅から歩いて約10分、歩道橋を渡ったところにあります。
 
   
矢切ネギ
文学碑を過ぎると野菊のこみちと名付けられた道を歩きます。でも両側はネギ畑です。
季節になると道端に野菊が咲くのでしょうか。
このネギ畑にあるネギは、「矢切ネギ」と名付けられていて、江戸川の氾濫でできた土壌がネギの栽培に適していたようで、明治の初めころから栽培された「千住」ネギの改良版で、太くて甘みがあり、一般消費者はその名を聞いことがありませんが、贈答用として結構人気のあるネギとのことです。
 
   
 
畑を過ぎると坂川を渡ります。矢切橋です。橋の欄干には「矢切の渡し」と「野菊」が彫刻されており、橋のたもとには野菊の墓の小説の一節が刻まれたレリーフがあります。  
   
   川の一里塚の碑
国土交通省と地元自治体が河川の堤防上に設けているミニ公園で、災害時の防水活動拠点、自然とのふれあい拠点、としておもな河川に平成元年から設けだしたものです。
「一里塚」とはなっていますが江戸時代の一里塚のように1里毎に設置されておらず、不等間隔で設置されています。
      日本の音風景百選の碑
環境省推進した「残したい“日本の音風景100選”」に「柴又帝釈天と矢切の渡し」として選定されています。
柴又帝釈天からは朝、昼、夕を告げる鐘の音が、そして河原では川を渡る渡し船の櫓の音やヒバリ、ヨシキリユリカモメなどの鳥の声が聞こえてくる風景が選定理由となっているようです。
 
   
矢切の渡しの碑
江戸時代に幕府が地元住民の利便を図るために設けた利根川水系河川の渡し舟は15ヶ所あったとのことですが、現在はここ松戸市矢切と葛飾区柴又との間を結ぶ1ヶ所だけとなっています。
この渡しを有名にしたのが、「野菊の墓」や映画「男はつらいよ」で、歌謡曲の「矢切の渡し」もここが舞台です。
 
   
矢切川の渡し場には旗が掲げられています。
この旗が掲げられているときは渡し舟が運行されています。
 
   
 
   
船は船頭さんを入れて31人乗り、この時は15人位ですが、船頭さんが櫓をこいでもそんなに揺れません。川面は風が少なかったからでしょうけど穏やかです。(風の強い時は船外機を利用しているようです。)
 
   
10分足らずで柴又側に到着です。ここから柴又帝釈天までは歩いて10分もかかりません。  
   
 
   
   
   
   
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