津和野(撮影2016.05.31)
 
「山陰の小京都」と呼ばれる津和野、その歴史は鎌倉時代の13世紀末に、吉見頼行が標高367mの霊亀山に三本松城(津和野城)を築いたのがはじまりで、関ヶ原の戦いで西軍の宇喜多秀家の従兄弟でありながら、東軍に与した坂崎出羽守直盛が、その戦功により慶長6年(1601年)に入城。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大阪落城の際、「千姫を助けたものに千姫を与える」との徳川家康の命を受けて火傷を負いながら千姫を救出するも、その火傷を見た千姫に拒絶されたため、千姫奪取を計画。奪取は幕府に露見して坂崎氏はお家断絶となり、元和3年(1617年)に因州鹿野(現 鳥取市鹿野)より亀井氏が4万3千石で入城し、霊亀山の麓に居館を置いて城下町を町を整備し以後明治維新まで、11代約250年間その治世が続きました。
町はJR山口線が運行するSL山口号の停車駅ともあって週末には大勢の観光客でにぎわいますが、訪れたこの日は平日とあって観光の中心となる殿町通りもひっそりとしていました。とはいっても、ツアーでの訪問のため、観光時間は昼食も含めてわずか1時間半、殿町通り中心の観光となってしまいましたので、津和野城址、森鴎外旧宅、嘉楽園、弥栄神社などを見ることができず、機会があればも一度ゆっくり訪ねたいと思っています。
 
    

町中に貼られていた津和野の古地図
 
        
   
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている殿町通りの風景  
   
        

                 元禄時代から続く分銅屋七右衛門の暖簾
 
                 昭和30年代によく見かけた木製のゴミ箱
 
        
津和野カトリック教会
殿町通りに面してあるこの教会は、昭和6年(1931年)にゴシック様式で建てられたもので、教会内部は畳敷きとなっています。
ここ津和野には、明治時代に入っても江戸幕府から続いていたキリシタン弾圧により、長崎県浦上より153名の信者が配流され、乙女峠にあった光琳寺に幽閉された上厳しい拷問により36名の信者が信仰を捨てずに殉教したという歴史があります。
光琳寺は廃寺となりましたが、跡地には「乙女峠 マリア聖堂」が建てられ毎年5月に乙女峠祭りが開催され、多くのカトリック信者が、殉教者を偲んで参列しているとのことです。
   
 
     
殿町通りの掘割
殿町通りは津和野藩の家老屋敷があったところで、堀には大きな坂崎出羽守が堀に蚊が発生するのを防ぐため養殖を奨励したといわれている錦鯉が何匹も泳いでいます。(何でも700匹ほどいるようです。)
それもかなりのデブです。花菖蒲も植えられていますが、少し時期が早かったようです。
    
 
     
藩校養老館
藩校養老館は、津和野藩八代藩主の矩賢
(のりかた)により天明6年(1786年)に創設され、11代藩主茲監(これみ)の時代には、江戸下屋敷を売却して得た資金により学問を奨励、儒学、医学、礼学、数学、兵学に蘭医学等の発展が行われました。
ここ養老館からは、明治の先哲といわれ東京学士会院(現 日本学士院)会長を務め、独逸学協会学校(現 独協学園)の初代校長を務めた西周
(にし あまね)、陸軍軍医で、ドイツ留学後に「舞姫」、「雁」、「山椒大夫」などの名作を残した文豪の森鴎外をはじめとして多くの俊才を輩出しています。
   
   
多胡家表門
多胡家は津和野藩11代にわたって筆頭家老職を務めた家柄で、瓦葺きの間口4mの表門の両側に合計26mのなまこ壁が続いています。
   
     
大岡家表門
多胡家に隣接してある大岡家も、津和野藩の家老職を務めていた家柄で、門を潜ると中には津和野町役場の庁舎があります。
家格によって塀の高さが微妙に変わるようになっているとのことで、大岡家の塀の高さは多胡無より若干低くなっています。
   
     
鷺舞神事のモニュメント
鷺舞とは津和野にある弥栄神社に伝わる古典芸能神事で、天文11年(1542年)に、時の藩主吉見正頼が山口の祇園会から移し入れたもので、坂崎氏の代に一時途絶えましたが、亀井氏の代になって京都祇園会の鷺舞を直接習得させて復活し、現在に至っており、毎年7月に行われる祇園祭の際に行われている「日本に只1つ残る鷺舞」です。
   
     
 
 
     
     
     
     
     
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