旧富岡製糸場 幕末に鎖国から開国した当時の日本において海外各国との貿易に貢献していたのが生糸です。しかしながら旧態依然とした製法にて生産される生糸は需要の拡大に伴い粗製濫造となり、その評判は落ちる一方となっていました。 時の明治政府には海外商社からの器械製糸場建設の要望が出され資金提供の申し入れもありましたが、国策として官営工場を建設すべきとの意見から1870年(明治3年)に官営工場の建設が決定。同時に器械製糸技術の導入を奨励したことから前橋藩においてイタリア式の製糸機械を導入して藩営前橋製糸所を設立した。この工場は日本初の器械製糸工場といわれているが規模も小さく大量生産には程遠いものでした。 政府の委託を受けたフランス人技師ポール・ブリューナは、周辺で養蚕業が盛んで繭の調達が容易であることや、土質の関係から農業には不向きな土地であること、水、石炭等の生糸生産に必要な資源が豊富なこと、建設に当って住民の同意が得られること等を条件として長野、群馬、埼玉の各地を回って候補地を選定した結果、群馬県の富岡に建設することが決定し1871年(明治4年)3月に建設が開始されました。 1872年(明治5年)7月に工場の主要部分の建設が完了、同年10月より官営「富岡製糸場」として当時としては世界最大級の規模の工場として操業が開始されました。その後工場は民間に払い下げられ「原富岡製糸所」、「株式会社富岡製糸所」、「片倉富岡製糸所」、「片倉工業株式会社富岡工場」と名称は変わるものの、第二次世界大戦時においてもアメリカ軍の空襲を受けることなく操業を行い、1987年(昭和62年)に操業を停止するまで一貫して生糸の生産が続けられていました。 操業停止後も片倉工業が保存に努めたことから近代化遺産として国の史跡、重要文化財として指定を受け、2014年(平成26年)6月に日本の近代化産業遺産としてはじめてユネスコの世界文化遺産に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として登録されました。(この写真は2011年6月に撮影したものです。) |
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製糸場入口 工場は富岡市の中心部に近く鏑川のそばに建てられており、広さは約60,000㎡あります。 |
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東繭倉庫(東置繭所) 幅12.3m、長さ104.4mの総2階建てで主に2階が繭置場として使用されていました。 |
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建物は「木骨レンガ造り」で建てられており、入口上部には建設年の「明治五年」の要石があります。 レンガの積み方は一段に煉瓦の長手と小口を交互に積む「フランス積み」で行われています。 (因みに旧信越本線の碓井橋梁は、長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む「イギリス積み」で、この違いは設計に携わったのがフランス人かイギリス人かによっています。) |
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東繭倉庫南面 |
東繭倉庫北面 |
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西繭倉庫(西繭置所) 東繭置所と同じ広さで造られており、東西合わせて32トンの繭が収蔵されていました。 |
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蒸気釜所の煙突 1872年に建てられた煮繭場・選繭場の煙突で、創業時のものは1884年(明治17年)の暴風で倒れており、この煙突は1939年(昭和14年)にコンクリート製で造られ高さ37.5mあります。 |
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乾燥場 大正末期に建てられた生繭の蛹を殺し、繭を乾燥させる施設。 |
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繰糸場 製糸場の中で中心的な建物で、操糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓が取り付けられており、トラス構造の天井には製糸工程で発生する蒸気を逃がすための換気装置としての越屋根が設けられています。 |
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繰糸場は長さ130mもあり、300釜のフランス式繰糸器が設置されていました。現在設置されている機械は昭和40年代のもので当時のものではありません(右は繰糸機の一部) | |||
ブリュナ館 創業当時の首長であるポール・ブリューナが住んでいた建物で、高床式の木骨レンガ造りで建坪320坪ありブリューナ一家とメイドが暮らしていたとか。それにしても320坪とは豪勢ですね。 ブリューナには月給600円に加えて賄金が毎年1,800円、合計9,000円の年俸が支払われており、日本人職工の年俸74円に比べてあまりにも高級すぎるとのことで問題となり契約を途中解除したようです。 ブリューナ帰国後には工女向けの教育施設などに転用され、戦後は片倉富岡学園の校舎としても使われていました。 |
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診療所 |
入院施設 |
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宿舎 奥の木造2階建てが宿舎ですが、ブリュナ館に比べるとなんとも粗末な建物です。 (立ち入り禁止区域で近くまでいって撮ることができません。) |
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Googleマップによる富岡製糸場の俯瞰写真 |
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建物建設から140年以上経過しており木造建築のため老朽化していることから内部立ち入りができないのがチョット残念です。私が訪れたのは夏休み後でツアー客もそれほど多くはありませんでしたが、世界遺産に登録された今はツアー客等で「超混雑」とか。写真もゆっくり撮れないでしょうね。 | |||
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