東京歴史さんぽ その5      
    
三囲(みめぐり)神社
東武鉄道東京スカイツリー駅から歩いて10分ほど、隅田川の堤防そばにある三囲神社、その歴史は室町時代の文和年間(1352~56年)頃に創建されたといわれていて「墨東の古刹」として知られています。
「三囲」のいわれは近江三井寺の僧源慶がこの地を訪れて古い祠を改修しようとした際に白狐にまたがった翁の像を見つけたところ、どこからともなく白狐が現れ、この神像の周りを三度回って消えたという故事によっているようです。
元禄6年(1693)の干ばつの際にこの地を訪れた俳人宝井其角が「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ翌日雨が降リ人々を救ったとのことで、この神社の名が広まり、京の三井家が江戸に進出した際に守護神として定め、以後三越の本支店に分祠が置かれています。
所在地:墨田区向島2-5-17
 
     
    
     
  三角石鳥居
正式には三柱鳥居というようですが、正三角形の形に三本の柱を組み合わせて造られた鳥居で京都太秦の三井邸にあるものがここに移されたようですが、原形は京都太秦の木嶋神社にあり、このほかに岐阜県大和町、奈良県桜井市にも同様の鳥居があります。
 
     
  三井のライオン像
かつて三越池袋店に置かれていたライオン像で、同店の閉鎖に伴いここに寄贈されたものです。
 
     
竹屋の渡しと三囲神社の鳥居
「竹屋」の由来は付近にあった茶屋の名前からとのことですが、「竹家の渡し」、「向島の渡し」あるいは「待乳の渡し」とも呼ばれていた隅田川の渡船場で、ここ三囲神社付近と対岸の待乳山聖天付近の間の渡しを行っていたもので、文政年間(1818~1830)から言問橋が架橋された昭和8年(1933)頃まで運行されていたとのことです。
現在の三囲神社の入り口は東側にありますが神社創建当時に建てられた鳥居は墨堤側にあり、対岸からは鳥居だけが見え浮世絵に好んで描かれていたとのことです。
     
     
言問橋
関東大震災(大正12年(1923)9月1日)の復興事業として計画され、昭和3年(1928)に墨田区向島と台東区花川戸の間に架橋された墨田川に架かる橋で、両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋(ドイツのハインリッヒ・ゲルバー考案による架橋方法)と呼ばれた長大な橋です。
橋の名前の「言問」は在原業平が詠んだ「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」からきているといわれていますが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は白髭橋近くにあった「橋場の渡し」のことのようで諸説あるようです。
 

墨田区向島から撮影
 
台東区花川戸から撮影
 
   
  牛嶋神社
言問橋の下流墨田公園の北側に接して建てられているこの神社は、貞観年間(859~879)に慈覚大師により創建されたと伝えられる神社で「牛御前社」とも呼ばれています。拝殿前の鳥居は木製の三輪鳥居で、三ツ鳥居ともいい中央の鳥居の左右に小さい鳥居が付いたもので、全国でも珍しい形のもので埼玉県秩父市の三峰神社、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)などにあります。
所在地:墨田区向島1-4-5
 
     
墨田公園
八代将軍徳川吉宗のはからいによって隅田川の両岸桜橋から枕橋付近までの約1㎞にわたって植えられた桜の並木が続く墨堤公園と水戸徳川藩の庭園の遺構を利用して造られたもので、日本さくら名所百選にも選定されており、春の桜の時期は観光客でにぎわいます。
   
   
   
 
勝海舟像
墨田区役所前のうるおい広場の緑地内に建てられた勝海舟の銅像で、本所生まれの勝海舟の功績を残すために建てられたものです。
   
     
助産師教育発祥の地碑
明治時代の女医村松志保子が助産師(産婆)となり、沼田藩最後の藩主土岐頼朝の別邸の一部を賜ってこの地に安生堂医院、淑女館、安生堂産婆学校を設立し、関東大震災の日までここで多くの産婆を育てたところです。
所在地:墨田区横網2-7
   
     
横網町公園
この地はもともと陸軍の被覆敞があったところで、大正12年(1922)被覆敞が移転し、当時の東京市が買い上げ、公園として整備しているさなかの翌年9月1日に関東大震災が発生、造成中の公園を避難場所として集まった38000人もの人々が直後に発生した火災に巻き込まれて.亡くなったところです。公園は昭和5年(1930)に完成し、震災による死者58000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が公園内に造られました。翌年には震災の記録を残すため復興記念館(入場無料)が公園内に建てられています。
その後の第二次世界大戦でも昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により多くの犠牲者が出たことから身元不明者の遺骨を納骨堂を拡張して「東京都慰霊堂」としてこの中に合祀されています。
所在地:墨田区横網2-3-25


右の写真は復興記念館の外観で、下の4枚は内部の写真です。
    
       
   
       

   
   
   
関東大震災で燃えた印刷機、モーター、車両等が屋外に展示されています。  
     
  日本庭園  
     
  東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
第二次世界大戦で昭和17年(1942)4月18日の初空襲から昭和20年(1945)8月15日の終戦までの間幾たびかの空襲により多くの都民の方が犠牲に会いましたが、この方々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」がこの碑の中に収められており、その史実を風化させることなく後世に語り伝えるとともに平和を祈念するために造られました。
 
     
  東京都慰霊堂
関東大震災、第二次世界大戦の犠牲者を慰霊するために建てられたもので、関東大震災の発生した9月1日と東京大空襲が行われた3月10日に慰霊供養が行われています。
慰霊等には付属して三重塔もありますが、全体が覆われていて修復中でした。
 
     
  震災遭難児童弔魂碑
関東大震災では約5000人の児童が被害にあい亡くなられましたが、その死を悼み冥福を祈るため昭和6年(1931)に市民の寄付により造られたものです。
なお碑は第二次世界大戦末期の昭和19年に金属回収のため撤去されており、この碑は昭和36年(1961)に造られた2代目です。

金属類回収令:第二次世界大戦時に戦局の悪化と物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補うため、官民所有の金属類回収を行う目的で制定された勅令です。
 
    
旧安田庭園
横網町公園と接するようにあるのがこの旧安田庭園です。ここは江戸時代には常陸笠間藩の松平氏の下屋敷があったところで、元禄年間に大名庭園として築造され、安政年間に隅田川の水を取り入れる汐入回遊庭園として整備されました。明治時代には旧岡山藩の藩主である池田氏の邸となっていましたが、その後安田財閥の祖である安田善次郎氏が所有し、氏の遺言により東京市に寄付され現在は墨田区が管理しています。(入場無料)
所在地:墨田区横網1-12-1
 
     
   
    
駒止め稲荷・駒止石・駒止井戸
三代将軍徳川家光時代の寛永8年(1631)の秋に大型の台風に見舞われ隅田川が大洪水になる被害が発生し本所側の被害が甚大であることから調べることになったようですが、隅田川の濁流に多くの人がしり込みする中を阿部豊後守忠秋が、柳橋から馬を乗入れここに渡って馬を止めたといういわれが残っています。その後土地の者が造ったのが駒止稲荷です。
 
   
 
     
   
     
勝海舟生誕の地碑
幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟) として知られている勝海舟(幼名 麟太郎)は西郷隆盛との薩摩邸での会談により江戸城無血開城に導いたことで有名ですが、文政6年(1823)1月13日にこの地にあった男谷精一郎邸にて誕生しています。
現在は両国公園となっており、碑は公園の東側に建てられています。
所在地:墨田区両国4-25-3
   
 
本所松坂町公園
公園と名はついていますが子供の遊べる遊具等は置かれておらず、外壁を見ると武家屋敷のなまこ壁のように見えます。そうですここは江戸時代に本所松坂町として吉良上野介邸があったところで赤穂浪士の討ち入りが行われたところです。
吉良邸は当時2550坪(約8800㎡)あったといわれこの近辺一帯が吉良邸となってました。
討ち入りが行われた後は屋敷は幕府に没収され住宅が立ち並んでいたようですが、昭和に入って地元の有志が土地を購入して整備し公園として東京市に寄贈したとのことで、園内には吉良氏をしのばせる「吉良の首洗い井戸」や稲荷社、吉良氏の像があります。
所在地:墨田区両国3-13-9
     
   
    
 
   
  吉良邸正門跡
この辺りは、当時吉良邸があっところで、こ元禄15年12月14日の未明に行われた赤穂浪士の吉良邸への討ち入りは、この表門からは大石内蔵助以下23名の浪士が邸内に侵入したといわれています。
所在地は両国3-8で本所松坂町公園とは少し離れています。
 
     
  与兵衛すし跡
江戸時代の「すし」といえば大坂が発祥の酢飯と具箱型に入れて作る押し鮨でした。
これを現在の握り鮨の形に考案したのが霊岸島生まれの小泉与兵衛で、文政年間(1818~1830)に考案して岡持ちに入れて売り出したところ爆発的な人気となり、この地に「華屋」の屋号で開店して現在の基を築きました。
店は昭和5年(1930)に閉店しましたが、現在チェーン店で「華屋与兵衛」というレストランがありますが全く関係ありません。
所在地:墨田区両国1-8
 
     
  石尊垢離場跡
石尊とは神奈川県秦野市にある大山のことで、大山阿夫利神社は勝負事と商売繁盛にご利益があるといわれて多くの江戸っ子たちが「講」を組んで出かけたということです。
出かける前には身を清めるため水垢離をとりましたが、その垢離場が旧両国橋の南際にあったということで最盛期には真夏の海水浴場を思わせる賑わいだったそうです。
所在地:墨田区両国1-11
 
     
  赤穂浪士休息の地
吉良邸で討ち入りを行った赤穂浪士が泉岳寺に引き上げるときに休息をとったのが、両国橋西詰めにある広小路です。
広小路とは明暦の大火(振袖火事)の教訓を元に整備された火除け地で、当時江戸には多くの広小路がありましたが、ここ両国の広小路は江戸三大広小路のひとつにあげられたところです。
所在地:墨田区両国1-11
 
     
    大高源吾の句碑(左)と両国橋由来碑(右)
赤穂浪士の一人である大高源吾忠雄は俳諧に秀で、俳人水間沾徳(みずのせんとく)の門下となり号を「子葉」としていました。江戸に出てから脇屋新兵衛と名乗り、吉良邸での茶会が催される情報をつかんだのも俳諧が縁で知り合った茶人山田宗徧から得たものです。
句碑は両国橋東詰の広小路跡にあり、討ち入り後に詠んだ「日の恩やたちまちくだく厚氷」とあります。皆さんのおかげでようやく敵を討てましたという意味でしょうか。
所在地:墨田区両国1-11

 
    
回向院
両国駅近くにある諸宗山回向院、明暦3年(1657)に焼死者10万人以上といわれる明暦の大火(振袖火事)の犠牲者を回向するために幕命(当時の将軍は5代徳川綱吉)で造った万人塚が始まりで、後に安政の大地震による被害者や水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬し、山号にあるようにあらゆる宗派の人だけでなくすべての生あるものを供養するという理念からいろいろな動物の供養を行っています。
また、老中松平定信によって寛政5年(1793)に造られた「水子塚」は、水子供養の発祥といわれています。

所在地:墨田区両国2-8-10
 
 
   
   力塚
回向院では明和5年(1768)に初めて勧進相撲が行われ、以後明治42年(1909)に両国国技館が出来上がるまでこの地で年2回の回向院相撲が行われていました。
この力塚は昭和11年(1936)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のため建立したものです。
      鼠小僧次郎吉の墓
江戸時代後期に大名屋敷を中心に盗みを繰り返した窃盗犯である次郎吉は「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与える」という伝説があり、義賊として江戸の庶民の信仰を得ていたとのことですが、「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しているようです。
 
   
     
     
     
     
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