東京歴史さんぽ その3 | |||||||||||||||||||||||||||||
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御穂鹿嶋神社 もともとは御穂神社(文明11年(1479年)創建)と鹿嶋神社(寛永年間(1624~44)創建)と別の神社でしたが、社殿の老朽化により平成17年(2005年)に合祀されています。 この地は昭和39年ごろまで神社のすぐそばまで漁船が入る入り江となっており、芝浜と呼ばれており人情話で有名な古典落語の「芝浜」の舞台となっているところです。現在は埋め立てが行われ当時の面影は見られません。 (所在:港区芝4-15-1) |
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愛宕神社 23区内では珍しい自然の山としては最高の高さの愛宕山(標高26m)の頂上にある愛宕神社は、慶長8年(1603年)徳川家康の命により創建され、火産霊命を主祭神としており防火・防災にご利益のある神社として知られています。 山の上にある神社なので石段を上らなければなりませんが、正面の石段はとても急で「男坂」と呼ばれており、標高差約20m、傾斜角度は約37度、段数は86段結構きつい階段です。 寛永11年(1634年)三代将軍の徳川家光公が増上寺参詣の帰途ここに立ち寄り、境内に咲いている源平の梅(1本の木に白、赤の花を咲き分けている梅の木をいいます。)を見て、「誰か馬にてあの梅を手折って参れ」と命ぜられ、家臣たちがしり込みする中で見事馬にて上り下りしたのが丸亀藩家臣の曲垣平九郎で、以後その名は全国に鳴り響いたとのことで「出世の石段」とも呼ばれており、講談や浪曲の「寛永の三馬術」で今も語り継がれています。 本当にこの石段を馬で上ったのというくらい急な石段ですが、曲垣平九郎以外にも過去に3例、明治15年(1882年)に元仙台藩の石川清馬、大正14年(1925年)に陸軍参謀本部の岩木利夫、昭和57年(1982年)にスタントマンの渡辺隆馬という人が成功しているとのことです。 「こんな石段とてもじゃないけど上れない!」という方も大丈夫、ちょっと回り道になりますが「女坂」という上りのゆるい石段があります。出世の石段を降りると縁起が悪いという方は女坂を降りてゆきます。(所在:港区愛宕1-5-3) 写真は左から出世の石段(3枚)、社殿入口の丹塗りの門(2枚)そして社殿です。(クリックすると大きな画像が表示されます。) |
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日本水準原点標庫 日本水準原点標庫は日本の水準原点を保護するための建物で、水準原点は正面の菊花紋章をあしらった蓋をはずしたところに入っています。 建物は国会前庭の洋式庭園(憲政記念館構内)にあり、明治24年(1891年)にかつてこの地にあった陸軍参謀本部の陸地測量部(現在の国土地理院の前身)が置かれていたこの地に設置されたもので、明治期の数少ない洋風建築として東京都の有形文化財に指定されています。なお、標庫の上部には「大日本帝国」と刻まれていますが、公的建造物でこの表記があるのは数少ないものだとのことです。 ここに水準原点が設置されたときの標高は24.5000m(東京湾の平均平均海面よりの標高)でしたが、関東大震災、東日本大震災により若干沈下し、現在では24.3900mとなっています。 (所在:千代田区永田町1丁目) |
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三菱一号館 東京丸の内で洋風貸事務所建築として明治25年(1892年)に三菱合資会社によって赤煉瓦造りで建てられたもので、その後同地帯はロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が続き「一丁倫敦」とも呼ばれていたようです。 現在の建物は平成21年(2009年)に旧三菱1号館に似せて煉瓦造りの建物で正式名称は「三菱一号館美術館」となっています。 (所在:千代田区丸の内2-6-2) 下の写真4枚は丸の内北口から地下鉄丸の内線の大手町駅に抜ける地下道内に展示されていた一丁倫敦と呼ばれていた当時の丸の内の風景です。(照明がガラスに反射しているのでちょっとみにくいですけど・・・) (クリックすると大きな画像が表示されます。) |
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平将門の首塚 大手町のビルの谷間に鬱蒼とした木が茂っているところが都の旧跡である平将門の首塚です。 天慶3年(940年)京の朝廷に対抗して東国の独立を宣した平将門はわずか2ヶ月で戦いに敗れ討伐され(承平天慶の乱)、その首級は平安京まで送られ東の市(現在の奈良市杏町や西九条町周辺)で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる伝承があり、その地は数ヶ所に上っており中でもここ大手町の首塚が最も著名なところとされています。もともとこの地は盛り土がされていた内部に内部に石室ないし石廓があったことから古墳であったのではと推測されています。 首塚の周りには何体もの蛙の置物がありますが、将門の首が京から飛んで帰ったという伝承から必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、「左遷されても必ず元の会社に帰ってこれるように」、「誘拐された子供が帰ってくるように」と願いをこめて蛙を供えているとのことで、訪れる人も少なくないようです。 なお、この場所は江戸時代の寛文年間に幕府の老中であった酒井雅楽頭忠清の上屋敷の中庭があった場所でもあり、寛文年間に発生した仙台藩のいわゆる伊達騒動ではこの中庭において仙台藩の重職であった原田宗輔(甲斐)が老中の審問を受けているさなかに仙台藩当主である伊達宗重を惨殺し、自らも惨殺された場所でもあります。 (所在:東京都千代田区大手町1―2―1 地下鉄大手町駅C5出口そば) |
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東京駅丸の内口全景(魚眼レンズで撮影) |
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