ショプロン(Sopron) オーストリアとの国境に近い街ショプロンは、ハンガリーの北西端に位置しており、人口約62,000人の街です。街の歴史はローマ時代から続いており、ローマ帝国時代にあった広場は、現在の市中心部の広場へと継承されていますが、4世紀から8世紀にかけての民族移動時代は一時的に廃墟になっていたとみられているようです。16世紀の時代にハンガリーの大部分の街はオスマン帝国の支配下に置かれましたが、街はその支配下には入らずに済んでおり、オスマン帝国支配下の街から移住してきた人たちで繁栄していたとのことです。 近世においてショプロンの街は、オーストリア=ハンガリー帝国領となっていましたが、第一次世界大戦後に、街の帰属を住民投票で決定することとなり、1921年12月14日の投票によりハンガリー領となりました。 第二次世界大戦後は、東西冷戦の境界の街となり、1989年には冷戦終結のきっかけとなる范ヨーロッパ・ピクニックが起こった街でもあります。 |
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ショプロンの観光がスタートする前にSさんと恒例の朝の散歩です。 時間は午前6時20分、関東地方ですとすでに日の出となって1時間近くたっていますが、ここハンガリーは日本の稚内よりさらに北に位置しており、日の出の時間は6時半過ぎとなっています。 |
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午前7時45分、通常この時間は朝食をとって観光開始までの休憩時間ですが、なんと早い時間に観光開始です。 | ||||||||||
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家の壁には、第二次世界大戦時にナチス・ドイツによってアウシュヴィッツに送られ、11歳で殺害されたボロス・リアナ(Boros Liána)のレリーフ像と記念碑がかけられています。 |
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中央広場に面して建つショプロン博物館(Soproni Múzeum - Storno Gyűjtemény)、右奥の塔は火の見塔です。 | ショプロン博物館の西側には政府機関の建物があります。 |
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リストのレリーフ像 「ピアノの魔術師」の別名を持つフランツ・リスト(Franz Liszt)は、1811年の10月に、当時はオーストリア帝国内であったショプロン県のドボルヤーン(現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディングとなっており、ショプロンの約18km南にあります。)に生まれました。 リストは、幼少のころから音楽の才があったとのことで、9歳の時にはこの街で初めて演奏会を開き11歳までこの地で過ごしていました。 街にはリスト記念館もありますが、観光時間がわずか40分と短く、見に行くことができません。 なお、ここショプロンでは、毎年7月に「リスト・フェスティバル・ショプロン」が開催されてます。 |
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旧市街にはローマ時代をしのばせる遺構が残されており、市壁(上左の写真)やバルバカンと呼ばれる円形の砦跡があります。 | ||||||||||
旧市街の観光を終えて一度ホテルに戻り、チェックアウト後に観光再開です。まずは、1989年のベルリンの壁崩壊のもととなったピクニック事件の現場を訪れます。 事件は、ショプロンの中心部から10kmほど北のオーストリアとの国境にあるフェルテーラーコシュ(Fertőrákos)で起きました。1989年の8月19日、ショプロンで行われていた「汎ヨーロッパ・ピクニック」という「ヨーロッパの将来を考える集会」に参加していた、東ドイツの市民たちが亡命を求めてオーストリアの国境を越え出し、その数600人を超えたといわれていますが、国境を警備していたオーストリアの警備兵は制止もしなかったとのことです。ハンガリー政府においても人道的立場から国境を開放すると東ドイツに通告、東ドイツ国内でも民主化運動が高まって約3か月後の11月9日にベルリンの壁崩壊という結果となりました。 事件の現場とその周辺は、「汎ヨーロッパ・ピクニック記念公園」として保存されており、公園一帯は、「フェルテー湖 /ノイジードル湖の文化的景観」として、2001年にユネスコの世界遺産に登録されています。 |
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鉄条網で造られたハンガリー側の国境跡 |
その奥はオーストリアとの国境となります。 |
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フェルテー湖 続いて訪れたのはフェルテー湖、オーストリアとハンガリーにまたがる汽水湖で、ドイツ語ではノイジードル湖またはノイジドラー湖とよばれており、中央ヨーロッパでは2番目位に大きい平原湖(ステップ湖)で、「フェルテー湖 / ノイジードル湖の文化的景観」としてユネスコの世界遺産に登録されているところです。 湖の4分の3はオーストリア、4分の1がハンガリーにあります。湖は紀元前18000年から14000年ごろにできたと推定されていますが、アドリア海からの海抜は110m位のところにあって、その水深は深いところでも2m弱しかなく、過去に乾燥や降雨による洪水を引き起こしているようです。 |
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午前10時過ぎに次の目的地フェルトゥードにあるエステルハージ宮殿に向けて出発です。 | ||||||||||
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