サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボ、町の歴史は先史時代までさかのぼることができるようで、現代のサラエボのような形になったのは15世紀のオスマン・トルコの統治時代であり、オーストリア=ハンガリー帝国に併合されたときもサラエボ州の州都でした。 このサラエボ近代になり幾たびか国際的な注目浴びています。1914年に発生したサラエボ事件は第一次世界大戦の引き金となり、また、1984年に開催した冬季オリンピックの興奮もおさまらないうちに、1991年に発生したユーゴスラビア紛争に続くボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で町は、大規模な破壊と人的な被害を受け12,000人以上の死者と50,000人以上の負傷者が出たと推測されており、その多くが一般市民であったといわれています。 現在町のほとんどの部分は再興されるか再開発され、紛争により破壊された建物の痕跡は町の中で見かけることが少なくなり、高層ビルの建設も行われています。 サラエボ国際空港近くのホテルを8時に出発、朝のラッシュもあり中心部についたのは8時40分過ぎ、観光スタートです。 |
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旧ホリディイン・ホテル ボスニア紛争の際各国のジャーナリストたちが戦況中継を発信したホテルで、今はきれいに修復が行われています。 |
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スナイパー(狙撃兵)通りを走るトラム 紛争当時1992年後半から1993年前半にかけてのサラエボ包囲ではセルビア人の狙撃兵による攻撃が激しく、このトラムの走る通りはスナイパー通りと呼ばれるようになり通りを見で見かける動くものすべてを標的にして銃撃を繰り返していたといわれています。 サラエボのトラムは1885年の開業で、ウィーンではまだ馬車軌道が運航されているときであり、その試験的な意味合いで導入されたとのことであり、また、ヨーロッパで最初に終夜運行を取り入れた歴史のある鉄道です。 トラムの後ろは紛争当時からある集合住宅で、壁にはまだ弾痕が見受けられます。 |
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サラエボ市庁舎 ミリャッカ川沿いに建つこの市庁舎オーストリア=ハンガリー帝国時代の1894年に市庁舎として建てられ、1949年より国立図書館として貴重な蔵書が収蔵されていましたが、ボスニア紛争開始直後に砲撃により外壁を残して内部は全焼殆どの蔵書を失ってしまいました。現在修復中です。 |
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市庁舎とは思えない装飾のある建物です。 | ||||||||||||
ラテン橋 ミリャッカ川に架かるるオスマン帝国時代の16世紀半ばに架けられたサラエボで一番古い橋で、はじめは木橋でしたがその後石橋にかけ替えられたとの記録が残っているようです。 橋の北端(写真では右側)はサラエボ事件の現場です。事件後一時この橋はプリンツィプ橋と呼ばれていました。 |
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サラエボ事件の現場 1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボを視察中、ボスニア系セルビア人グループのガヴリロ・プリンツィプにより銃撃により暗殺された現場で、オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビアを非難し、セルビア政府に対して受け入れがたい要求を突きつけ全面受け入れがされないとして翌7月28日にセルビアに対して宣戦を布告、これが第一次世界大戦のきっかけとなったのです。 ラテン橋から見た暗殺現場、ラテン橋を渡った先にある四つ角の左側から銃撃が行われ、ミュージアム(サラエボ博物館)のあたりを通っていた夫妻が狙撃されました。 |
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ミュージアムの壁には事件当時の写真が何枚も掲げられています。 | ||||||||||||
左の写真はミュージアムの壁におかれた記念プレートで、1914年6月28日にこの場所でガヴリロ・プリンツィプがフランツ・フェルディナントとその妻ソフィアを暗殺したと記されています。 | ||||||||||||
バチシャルシァ ミュージアムから北側一帯がサラエボの旧市街にあたり、バチシャルシァと呼ばれるオスマン帝国時代に造られた職人街で、最盛期には1000軒以上の商店や手工業者があったとのことで、通りを歩くとあちこちで金属製品の打ち出しをする音が聞こえてきます。 建物は一見日本の古い民家のような感じがしますが、売っている品物を見るとエキゾチックな感じを受けます。 |
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ブルサ・ベジスタン 正面奥のドーム屋根の建物で、16世紀に建てられたもので当時絹の取引所として使われていました。「ブルサ」とはトルコ北西部にある都市の名前で当時絹の産地として栄え、ここで生産された絹をこの地に運んで取引していたことからその名がついたようです。現在は歴史博物館として利用されています。 |
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マドラサ跡 ガジ・フスレヴ・ベイによって1537年に建てられたもので、イスラム社会での教育施設でした。 |
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午前10時過ぎ次の目的地モスタルに向けて出発です。 | ||||||||||||
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