大阪城 日本100名城の56番に選定されている大阪城は、安土桃山時代の天正11年(1583年)浄土真宗の石山本願寺(大坂城)の跡地に豊臣秀吉によって15年の歳月をかけて築城され、秀吉とその子秀頼の居城となりました。築城当時の名は「大坂城」となっており、別名を「金城」とよばれていました。 慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなった後の慶長19年(1614年)に大坂城は徳川家康の大軍に攻められ(大坂冬の陣)て惣構・三の丸・二の丸が破却、本丸を残すのみとなり、翌慶長20年(1615年)大坂夏の陣で落城し豊臣氏は滅亡。 その後、徳川二代将軍秀忠によって城の再建が始まり寛永6年(1629年)に完成したものの、寛文5年(1655年)落雷により天守を焼失し、天守のない城の状態が続き、幕末の混乱時の火災で城内の建造物の一部を除いてほとんどを焼失し、更に太平洋戦争時には米軍の大阪大空襲により残っていた二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失したとのことである。 現在の復興天守は昭和6年(1930年)に市民の寄付等により再建されたもので、復興天守の第一号となっています。天守の再建には当時のお金で150万円(現在の貨幣価値で5〜600億円)かかったそうです。なお、お城周辺が大阪城公園として市民の憩いの場にもなっています。また、日本100名城の54番に選定されています。 |
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公園の紅葉 | ||||||||||||||
重要文化財の大手門(中央)と千貫櫓(左端) |
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千貫櫓 大阪城最古の櫓で元和6年(1620年)に造られた大手門を防御する重要な櫓で、「千貫」の由来は信長群が石山本願寺を攻めたときに難攻不落な櫓がこの付近にあって「これを攻め落とた者に千貫文(250両)を与えても惜しくない」と話したことによるといわれています。。 |
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多門櫓 渡櫓と続櫓で構成された多門櫓、寛永5年(1628年)に創建されたがその後の落雷により焼失し、嘉永元年(1848年)に再建されたもので、現存する多門櫓の中では最大の規模の大きさを誇っており、重要文化財に指定されている。(大手口枡形から撮影) |
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桜門枡形の巨石 桜門を入ると備前岡山藩によって築かれた枡形があり、その正面には大坂城内で最大の石があります。、別名「蛸石」と呼ばれるこの巨石は備前産の花崗岩でその大きさはなんと畳36畳敷き分、重さは108トンあるとか。 枡形の上には多門櫓が建てられていましたが、慶応4年(1868年)明治維新の際の大火で焼失したままとなっています。 |
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銀明水井戸の井筒 井筒とは井戸の地上部分に設けた円筒状あるいは方形の囲みのことをいうが、大阪城内にはあった5箇所の井戸のうちのひとつで、本丸御殿の飲料用として用いられていました。 井戸に「金」、「銀」という名をつけることは他のお城でもあるとのことで、重要性の高い井戸に冠していたようです。 |
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残念石 場内には大きな石がこのように残されていますが、石垣用として運ばれてきながら何らかの理由で石垣に用いられず残っているもので「残念石」と呼ばれています。 |
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天守閣の鯱 天守閣には鯱がありますが、鬼瓦同様に守り神として大棟の両端に取り付けられ、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すという言い伝えが残っているとのことで、織田信長が安土城の天守に施したのが最初といわれています。 徳川時代の金鯱は木製の鯱に金張りでしたが、現在の鯱は青銅製鋳物の鯱に金箔張りとなっています。 |
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天守閣から見る大阪の街並み | ||||||||||||||
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