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学橋(まなび) 二の丸への入口となる橋ですが、江戸時代末期の絵図には載っていませんので、明治以降に架けられた橋のようです。 |
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二の丸隅櫓 学橋と馬出門土橋の間にあるのがこの隅櫓です。二の丸の東側にあって関東大震災で崩壊し、昭和9(1934)年に再建されたもので、崩壊前の隅櫓はこの倍の大きさがあったとのことですので、かなり立派だったのではないでしょうか。 |
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馬出門(うまだしもん)土橋と馬出門 馬出門土橋は小田原城への正面入り口となる橋で、「めがね橋」とも呼ばれています。 馬出門は二の丸の正面に位置しており、土塀と内冠木門で枡形門形式となっています。門の名前は馬屋曲輪に通じることからついたといわれており、この門は平成21(2009)年に復元されたものです。 |
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馬屋曲輪跡と櫓台石垣 |
馬屋曲輪に残る切石敷井戸の跡 |
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常盤木門 常盤木橋を渡るとすぐに常盤木門があります。この門は、本丸の正面に位置しており、小田原城の中でも堅固に造られていたとのことで、江戸時代の初期にはすでに設けられていました。門は元禄時代に発生した大地震で崩壊し、宝永3(1706)年に多聞櫓と渡櫓で構成される枡形門形式で再建されていました。門は明治時代の廃城令後に取り壊されており、現在の門は、明治時代初期に撮影されて残る写真を基に昭和46(1971)年に再建されたものです。 下左の写真は常盤木橋方向から、右は本丸側から撮影 |
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住吉橋と渡櫓 住吉場は途中まで土橋で、内仕切り門の前が木橋となっています。 下左はお濠側から、下右は枡形から撮影。 |
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銅門 住吉橋を渡って内仕切り門を抜け枡形に入ると銅門(あかがねもん)です。銅門は二の丸の表門で、扉の飾り金具に銅を用いていたことからこう呼ばれるようになったといわれており、現在の門は平成9(1997)年に再建されたものです。下左は枡形から、下右は二の丸側から撮影。 |
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天守閣 最初に建てられた天守閣の建設時期については明らかではないものの15世紀中ごろではといわれていますが、江戸時代に2度も地震の被害にあい、中でも元禄16(1703)年に起きた大地震で天守閣は倒壊しており、その後宝永3(1706)年に再建された天守閣が明治時代の廃城令で廃却されるまで現存していました。現在の天守閣は昭和35(1960)年に鉄筋コンクリートで復元されたものですが、最上部に設けられている高欄は廃却前の城にはなかったものですが、見学者の安全を考慮して設けられています。 |
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清閑亭 二宮報徳神社より少し南側にあるのがこの清閑亭です。清閑亭は外郭土塁の南向き傾斜地に明治39(1906)年に、明治時代に活躍した黒田長成侯爵の別邸として数寄屋風書院造りで建てられたもので、晴れた日には真鶴半島や相模湾の奥に大島を望むことができる絶景ポイントです。 尚、母屋は国の登録有形文化財となっています。。 |
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