小田原城
 
 
小田原城の歴史については定かでないところが多く、平安時代末期に、相模の豪族小早川氏が居館を築いたのがはじめではといわれています。
その後、室町時代に大森氏が支配していましたが、15世紀の末に伊豆の国を支配していた伊勢盛時(後の北条早雲)が大森氏より小田原を奪い、以後約100年間5代にわたって関東支配の中心拠点として整備拡張されていました。
しかしながら、天正18(1590)年に豊臣秀吉勢の石垣山一夜城の築城をはじめとする小田原攻めにより北条氏は滅亡。北条氏滅亡後は小田原攻めに参戦した大久保忠世が4万5千石で、城主となり城郭の整備を行いましたが、その子忠隣の時代の慶長19(1614)年に改易処分となり、城は破却されました。
翌年阿部氏が5万石で入城、更には寛永9(1632)年に稲葉氏が8万5千石で入城し、天守を含む城の整備が行われました。貞享3(1686)年には改易処分から御赦免となっていた大久保氏が70年余の歳月を経て小田原城に入場し、明治維新まで大久保氏が城主となっていました。
右の写真は、小田原駅西口にある北条早雲の騎馬像です。

城へは小田原駅の東口から歩いて約10分で到着します。
 
       
幸田門跡
駅から御濠端通りを歩くいて5分くらいで幸田門跡に着きます。
この幸田門は、三の丸にあって戦国時代には上杉謙信や武田信玄の攻撃を受け二の丸への侵入を許したところです。石碑の後ろには「三の丸土塁」の跡が残っており、小さな公園となっています。
   
 
        
  御用所跡
幸田門跡からすぐ、ハローワークの前にあるこの石碑は、御用所といって藩の執務をとる場所となっていました。御用所は当初箱根門口の近くにあったものですが、文政年間にこの地に移設され、幕末のころには母屋のほかに6棟の建物が建ち並んでいました。
    大手門跡の鐘楼
学橋の信号を過ぎて地方検察庁の手前を左に曲がり、50mくらい歩いた左側にあるのが、この鐘楼です。
大手門は、当初箱根門口にあったものを寛永10(1633)年に三の丸の東側に移設したもので、櫓門、石垣で構成された枡形で構成されていました。
鐘楼は当初浜手御門にあったものを移設しており、現在でも毎日2回朝夕6時に搗かれています。
 
       
   学橋(まなび)
二の丸への入口となる橋ですが、江戸時代末期の絵図には載っていませんので、明治以降に架けられた橋のようです。
 
        
二の丸隅櫓
学橋と馬出門土橋の間にあるのがこの隅櫓です。二の丸の東側にあって関東大震災で崩壊し、昭和9(1934)年に再建されたもので、崩壊前の隅櫓はこの倍の大きさがあったとのことですので、かなり立派だったのではないでしょうか。
   
        
馬出門(うまだしもん)土橋と馬出門
馬出門土橋は小田原城への正面入り口となる橋で、「めがね橋」とも呼ばれています。
馬出門は二の丸の正面に位置しており、土塀と内冠木門で枡形門形式となっています。門の名前は馬屋曲輪に通じることからついたといわれており、この門は平成21(2009)年に復元されたものです。
   
     

馬屋曲輪跡と櫓台石垣
 
馬屋曲輪に残る切石敷井戸の跡
 
   
常盤木橋
二の丸と本丸の間には東堀があり、本丸に行くにはこの常盤木橋を渡らなければなりません。東堀は現在花菖蒲園となっていて、6月にはご覧のように花菖蒲と紫陽花の競演を見ることができます。
   
 
     
常盤木門
常盤木橋を渡るとすぐに常盤木門があります。この門は、本丸の正面に位置しており、小田原城の中でも堅固に造られていたとのことで、江戸時代の初期にはすでに設けられていました。門は元禄時代に発生した大地震で崩壊し、宝永3(1706)年に多聞櫓と渡櫓で構成される枡形門形式で再建されていました。門は明治時代の廃城令後に取り壊されており、現在の門は、明治時代初期に撮影されて残る写真を基に昭和46(1971)年に再建されたものです。
下左の写真は常盤木橋方向から、右は本丸側から撮影
 
   
        
住吉橋と渡櫓
住吉場は途中まで土橋で、内仕切り門の前が木橋となっています。 下左はお濠側から、下右は枡形から撮影。
 
   
    
銅門
住吉橋を渡って内仕切り門を抜け枡形に入ると銅門(あかがねもん)です。銅門は二の丸の表門で、扉の飾り金具に銅を用いていたことからこう呼ばれるようになったといわれており、現在の門は平成9(1997)年に再建されたものです。
下左は枡形から、下右は二の丸側から撮影。
 
   
     
天守閣
最初に建てられた天守閣の建設時期については明らかではないものの15世紀中ごろではといわれていますが、江戸時代に2度も地震の被害にあい、中でも元禄16(1703)年に起きた大地震で天守閣は倒壊しており、その後宝永3(1706)年に再建された天守閣が明治時代の廃城令で廃却されるまで現存していました。現在の天守閣は昭和35(1960)年に鉄筋コンクリートで復元されたものですが、最上部に設けられている高欄は廃却前の城にはなかったものですが、見学者の安全を考慮して設けられています。
 
   
   
  箱根口門跡(左)と三の丸土塁(右)
城の南側、足柄街道に面してあるのが、三の丸の出入口のひとつである箱根口門で、現在は石垣が残り、その上に石碑があります。
三の丸の土塀は市内のあちこちに残っていますが、右の写真は市立三の丸小学校の校庭の北側部分のものです。
 
 
     
報徳二宮神社
小田原城二の丸小峰曲輪の一角にあるのが、明治27(1894)年に創建された報徳二宮神社です。神社の入り口にある大鳥居のわきには『懸社 報徳二宮神社』と刻まれた石柱があり、後には『奉献 横綱 常陸山谷右エ門』と刻まれています。
中央より少し下の部分に傷があり、色が悪くなっていまが、そばにいた駐車場の係員に聞いたところこれは関東大震災の時に途中から折れたもので、それを修復しているとのことでした。
境内には最近では見かけることが少なくなった背中に薪を背負いながら本を読む幼少期の二宮金次郎像と報徳社時代の二宮尊徳像があります。
なお二宮金次郎像は昭和初期に制作されたもので、当時約千体制作されたとのことですが、太平洋戦争での金属類回収令により殆どが供出され、現在残っているのはこの一体だけとなっているようです。
     
 
     
   
 
     
清閑亭
二宮報徳神社より少し南側にあるのがこの清閑亭です。清閑亭は外郭土塁の南向き傾斜地に明治39(1906)年に、明治時代に活躍した黒田長成侯爵の別邸として数寄屋風書院造りで建てられたもので、晴れた日には真鶴半島や相模湾の奥に大島を望むことができる絶景ポイントです。
尚、母屋は国の登録有形文化財となっています。。
   
     
   
     
 
 
     
     
     
     
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