鳴子温泉(2022.04撮影)
 
20数年ぶりに宮城県の鳴子温泉を訪れてみました。前回訪れたときは家内と義母の3人でしたが、今回は一人旅です。
 
 
   
  鳴子温泉駅
列車を降りて改札口を出ると足湯(下の写真)があります。
 
 
   
  足湯は両側の2ヶ所あり、「ぽっぼの足湯」と名付けられたこの足湯はヒノキ造りとなっていて、温度は体温より少し高いくらいかなという感じです。電車の待ち時間に利用する方が多いようです。無料です。
 
地図で見ると歩いて25分くらいのところに尿前(しとまえ)の関跡があるとなっているので、宿に入る前に行って見ることに。
 
 
 
 
歩きだして約20分のところにある江合川(えあいがわ)に架かる橋の名前が「義経啼子橋」となっています。
源義経が兄の頼朝に追われて平泉に落ちのびる途中、正室の北の方が亀若丸を出産しましたがなかなか産声を上げず、この地にある川原湯温泉につかったところ産声を上げたことから、この地を「啼子」といったといい、これが現在の「鳴子」の地名となったという伝説があるようです。
 
 
 
   
 

義経啼子橋からさらに約5分、尿前の関跡につきます。
 

出羽街道中山越

尿前の関があるところは、現在国道108号線となっていて、仙台から秋田県の由利本荘市に通じる道ですが、江戸時代は出羽街道となっていて、俳聖松尾芭蕉が門人の河合曽良を伴って奥のほそ道の旅の際に通ったところでもあります。
ここ尿前の関は、陸奥と出羽の国境となるところにあるため、旅するときは持つことを定められていた通行手形を持たずに旅立った芭蕉は、厳しい取締りにあったようで、身分が明らかになる迄留め置かれていたようです。
 
 
   
   
   
 
   
  関所跡となっていますが、建物は一切残っていません。写真中央奥の白いものは芭蕉句碑のそばに設けられた芭蕉の像のようですが、なぜかビニールで覆われています。
 
 
   
     
 
   


芭蕉句碑

碑が設けられてからかなりの年月を経ているため刻まれた字が読み難くなっていますが、ここで詠んだ芭蕉の「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(シトまたはバリ)する枕もと」と刻まれています。
 
 
   
  共同浴場『滝の湯』
鳴子に2ヶ所ある共同浴場の一つで、千年の歴史をもっている古湯です。湯殿は2つありますが、45℃近い白濁した源泉がそのまま流れてきますので、熱いお風呂が好きな私ですけど、わずか2分位しか入れませんでした。
 
 
 



鳴子温泉神社

温泉神社は、837年(聖和4年)に火山活動によって突如噴出した温泉を鎮めるため温泉神を祀ったのが創建と続日本後記に記されている歴史ある神社です。
 



啼子之碑

温泉神社の鳥居傍にあるこの碑は、1799年(寛政11年)に鳴子の湯守(源泉の管理人のことをいいます。)達によって設けられたもので、長い年月を経ているため文字が読み難くなっていますが、鳴子の位置や、源義経主従が兄の頼朝に追われて平泉の藤原秀衡を頼って落ちのびる様子、嫡男亀割丸の誕生のいきさつなどが刻まれているとのことです。
 



湯神大石(ゆのかみのいし)

837年(聖和4年)の大噴火の際に斜面を流れる火砕流によって転石したと伝えられている石で、重さは約10トンあるとのこと。



深沢要のこけし歌碑

深沢要は昭和時代初期のこけし研究家・版画家・童話作家で、こけしの収集研究でこけし産地を訪れるとともにこけしに関する本を執筆していました。
碑には「みちのくは 遥かなれども 夢にまで こころの山山 こころのこけし」と刻まれています。
 
 
 
 
 



境内には土俵があります。
土俵のそばには「鳴子相撲記念碑」(左の写真)があります。ここ鳴子は東北地方の草相撲のメッカとなったところとのことで、源頼朝が平泉征伐の際に戦勝祈願で相撲を奉納したと伝えられており、現在でも秋には高校生による奉納相撲が行われています。
 
ここ鳴子はこけしの産地で知られており、街を歩くとこけし工房が何件もあります。
また、街中にはこけしを使ったモニュメントがいくつも配置されています。
 
 
      
      
   
  鳴子・早稲田桟敷湯
滝の湯とともに共同浴場となっているこの温泉は、1948年(昭和23年)に早稲田大学の学生たちがボーリング実習で掘削した温泉です。

 
 
 
   
街を歩くと無料の足湯や手湯のコーナーがあります。
 
 
   
鳴子温泉の地図
 
     
     
     
     
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