三嶋大社(2019.04.06撮影)  
 
 
 




三嶋大社
東海道の11番目の宿場町である三島宿の中心部にあるのがこの三嶋大社です。
三嶋大社、三嶋大明神あるいは伊豆国一宮とも呼ばれており、創建時期は不明ですが、奈良・平安時代の古文書にもその名が出る歴史のある神社で、伊豆国一宮として源頼朝をはじめとして武家からの崇敬が厚く、東海道を旅する庶民からも信仰されていました。
写真は東海道前の大鳥居で、下田街道はここを起点にはじまっています。

(三島市宮町2-1-5)
 
   
 



たたり石

約2900年前に噴火した富士山の噴火で運ばれたといわれる石で、大鳥居前の旧東海道と下田街道の分岐点にあって交通整理の役をしていたといわれています。石を移動したところ祟りが起きたことからこの名がついたといわれています。
   



若山牧水の歌碑

明治から昭和初期の活躍した歌人の若山牧水は、沼津の千本松原の景観に魅せられて、大正9年に一家で沼津に移住。県の松林伐採計画に反対して運動を起こし、計画を断念させています。この碑は三嶋大社の花火大会の際に詠んだ句で、碑には「のずえなる三島のまちのあげ花火月夜のそらに散りて消ゆなり」と刻まれています。
牧水は昭和3年(1928年)に43歳で沼津の地で亡くなっています。
 
        
 



源頼朝旗揚げの碑

境内の右奥にあるこの碑は、平安時代末期の治承4年(1180年)に平家追討を命ず令旨が後白河法皇の皇子である以仁王より各地の源氏に対して発せられ、平家が源氏追討を企てたことから頼朝は挙兵を決意し、東国各地の豪族に挙兵の協力を呼び掛け、8月17日に伊豆の国の代官であった山木(八巻)兼隆の夜討ちに成功して旗揚げに成功しました。
なお碑には、「治承四年八月十六日源頼朝は、北條時政を招き旗挙げの相談をし、「先づ八牧判官兼隆を夜討ちにすべし急ぎ相計へ」 時政「但し今夜は三島社の御神事にて、国中には弓矢とる事候はず」(源平盛衰記)との意見を入れ、十七日夜討と決定した。十七日藤九郎盛長を奉幣使として戰捷を祈請し(東鑑)旗挙げに成功したのである 二日後、すなわち八月十九日報賽のため神領寄進の下文を寄せた。」と刻まれており、寄進の際の下文は宝物として大社に所蔵されています。
 
       




総門
大鳥居を抜けてあるのがこの総門(惣門)で、昭和5年(1930年)11月26日に発生した北伊豆地震で、それまで総門が倒壊したため翌年に竣工されています。総門にある注連縄は、太さが2m、長さが6.4mあり、その重さは400kgあります。
 
   
 
境内には15種約200本の桜があり、2月の寒桜から八重桜まで長いこと桜を愛でることができます。  
   
 
芸能殿
慶応4年()に完成した総門でしたが、北伊豆地震で倒壊し、その後芸能殿として境内に移築され、例祭の神賑行事や年間を通して奉納芸能が行われています。
神馬社
慶応4年(1860年)に完成した神馬が納めれられています。神馬社の右側には源頼朝が源氏再興を祈願した際に休息したと伝えられる石と北条政子が腰かけたと伝えられる石があります。
 
   

神鹿園
奈良の春日大社より雄雌8頭を譲り受けたもので、毎年3月に神鹿記念祭が行われています。
   



松尾芭蕉の句碑

元禄7年(1694年)に、芭蕉が三島大社に参詣した際に詠んだ「どむみりと 棟(あふち)や雨の 花曇り 」の句が刻まれています。
「棟」とは「せんだん(栴檀)」のことをいい、神池のそばで咲いていたせんだんの花を見て江戸に残してきた病床の妻を案じて詠んだといわれています。
 
         
 
神池(しんち) ここでは、元暦2年(1185年)に源頼朝が放生会を行っています。  
   




厳島神社
北条政子が勧請したと伝えられる神社で市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)を祀っています。安産、裁縫上達、芸事上達で信仰されています。
 
   
 



矢田部式部盛治像

神門手前の左側に置かれているこの像は、三嶋大社の第66代神主の矢田部式部盛治(矢田部盛治とも)の像で、嘉永7年(1854年)に発生した東海大地震で、社殿が倒壊した際に、16677両予の巨費と10年の歳月をかけて社殿復興に努め、また幕末に発生した戊辰戦争では、伊豆伊吹隊を結成,新政府軍の東進に協力した人です。
 
神門
慶応3年(1867年)に総欅造りで再建され再建たもので、三島市の指定文化財となっています。
 
 
 
舞殿(ぶでん)
拝殿の前に建てられており、拝殿と同時期の慶応2年(1866年)に再建されたもので、古くは「祓殿(はらえどの)」と呼ばれる神楽祈祷を行う場所でしたが、舞の奉納が多く行われることから舞殿と呼ばれるようになったとのことで、現在では舞の他に各種神事が執り行われています。
 
   
 
社殿
社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる複合社殿で、「御殿」と総称されています。現在の社殿は安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)の落成ですが、三代将軍徳川家光による寛永年間の造営の形式が踏襲されており、国の重要文化財に登録されています。
 
   




西五社

舞殿の西側にある末社で、左から船寄社、天神社、酒神社、第二社、小楠社が祀られていますが、祭神は不明のようです。
 
   




東五社

舞殿の東にある末社で、左から幸神社、第三社、聖神社、天神社、大楠社が祀られていますが、西五社同様に祭神は不明のようです。
 
   
 



若宮神社(左)と見目(みるめ)神社(右)

ともに三嶋大社の摂社で、若宮神社は物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神を祭神としており、古くは「八幡宮」、「若宮八幡宮」、「若宮社」等とも称された神社で、古くは二宮町に鎮座していましたが、移転時期は不明なるもこの地に移されています。
見目神社は、波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命 - 三嶋神の后神6柱を祭神としており、総称して「見目6柱」とも呼ばれています。
社殿はいずれも慶応4年(1868年)に再建されたものです。
 
 
   
   
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