ジェロニモス修道院とベレンの塔
 
リベイラ市場を出発して約15分でジェロニモス修道院に到着です。前回訪れたときはミサが行われており聖堂内には入れず、ベレンの塔も外観を見るだけでしたが、今回はジェロニモス修道院もベレンの塔も内部の観光ができます。
 
   
ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)
 
テージョ川の河口にほど近いところにあるジェロニモス修道院は、1502年に、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓、エンリケ航海王子の偉業をたたえるためマニュエル1世が着工を命じ、回廊などの大部分は1511年に完成したものの、マニュエル1世の死去、更にはスペインとの同君連合の問題もあって工事が長いこと中断し、完成に至るまで300年近くかかったといわれています。
この修道院の建設にかかる費用は、ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却で得た利益がによって賄われ、その後も香辛料貿易での利益で賄われたといいます。
修道院は、マヌエル様式の最高傑作といわれ、河口にあるベレンの塔とともにポルトガルの大航海時代の海上帝国の栄華と繁栄の記憶をとどめるものとして、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の名で、1983年にユネスコの世界文化遺産に、ポルトガルとして初めて登録されました。
 
      
    
修道院の全景を写そうと思ってもとにかく幅が長く、1枚では写せません。googleマップで調べてみると、どうやら全幅は300m以上あるようです。  
     
修道院の入口は南門と西門がありますが、これは南門。
聖母マリアを中心に左右に24人の聖人像とマヌエル様式の彫刻は目を見張るものがあり、1582年にこの地を訪れた天正遣欧少年使節もその美しさに驚嘆したといわれています。
   
 
     
  ヴァスコ・ダ・ガマ(1460~1524年)の棺
ポルトガルの大航海時代の先駆けとなったインド航路の発見によりポルトガルに富と繁栄をもたらしたヴァスコ・ダ・ガマの棺には、マヌエル様式の模様の中心に、3本マストのキャラベル船(カラベ船ともいいます)が彫られています。
 
        
  ルイス・デ・カモインス(1524頃~1580年)の棺
軍人として自らアフリカ南部のセウタやインド、マカオなどに赴任し、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見と大航海時代の基礎をつくった航海者たちを称した抒情詩「ウズ・ルジアダス」を発表した、ポルトガル最大の詩人と呼ばれるカモインスの棺には、マヌエル様式の彫刻が施されています。
 
     
   
 
     
   
中庭と回廊   食堂に掲げられた聖ジェロニモスの絵とアズレージョ  
     
トーレ・デ・ベレン庭園
ジェロニモス修道院からテージョ川の河口にほど近いところにあるベレンの塔に移動です。
ベレンの塔はトーレ・デ・ベレン庭園の中にありますが、飛行機それも複葉機のレプリカが飾られています。
この飛行機は、1922年にリスボンからブラジルのリオデジャネイロまでの南大西洋横断飛行に用いられた飛行機のレプリカで飛行機のそばには、それを示す記念の石碑があります。
飛行機の実物はジェロニモス修道院そばにある海洋博物館に展示されています。
   
 
     
ベレンの塔(Tower of Belem)
 
テージョ川の河口にあるこの塔は、正式名を「サン・ヴィセンテの塔」といい、ヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して、マヌエル1世により16世紀のはじめに、マヌエル様式にて造られたもので、燈台としての機能のほかに、テージョ川を航行する船を監視するための要塞としての機能を持っていました。
   
 
   
  塔の内部には砲郭があり、何門もの大砲が据えつけられています。砲郭上部には発射された大砲の煙を排出するための開口部があります。  
   
  塔のテラスから川の上流を眺めると、発見のモニュメント、その先には4月25日橋が見えます。
4月25日橋は、リスボンと対岸のアルマダを結ぶ全長2277mの吊り橋で、1966年8月の開通。上部が6車線の道路、下部が鉄道線路となっていますが、鉄道線路が施設されたのは資金難から1999年と遅れました。
橋の名は完成当時の大統領であったアントニオ・サラザールの名にちなんで「サラザール橋」と名付けられましたが、1974年4月25日のカーネーション革命後に現在の名に改められました。
カーネーション革命とは、独裁政治を長く続けていたサラザール政権に対し、疲弊した経済を打破すべく立ち上がった兵士らによる無血革命が成功したのちに、市民たちが兵士に対してカーネーションを手渡し、兵士たちが銃口にカーネーションの花を挿したことから革命のシンボルとなったことからそう呼ばれています。
 
    
発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)

テージョの川岸に造られたこのモニュメントは、高さが52mあり、キャラベル船(カラベル船ともいい、3本マストの100tにも満たない小型の帆船です。)の船首を模して1940年の国際博覧会の際に建てられました。
当初の塔は、材質がもろいもので造られたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事により、1960年にコンクリート製に造りかえられています。
モニュメントには、エンリケ航海王子をはじめヴァスコ・ダ・ガマなど合計32名の当時の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師らの像が並んでいます。
このモニュメントは、インターネットのページで世界遺産と紹介している方もおりますが、「ジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成要素には含まれておりません。
   
 
     
  モニュメントの東側
キャラベル船を手に持つエンリケ航海王子を先頭に、大航海時代のポルトガル王であったアフォンソ5世、インド航路発見のヴァスコ・ダ・ガマが続き、初めて世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼラン(左から5番目)、日本にキリスト教を伝導したフランシスコ・ザビエル(右端から2人目)など17名が並んでいます。
 
     
  モニュメントの西側
エンリケ航海王子を先頭に、エンリケ航海王子の弟のフェルナンド聖王子、騎士で航海士のジョアン・ゴンサルヴェスや航海士、天文学者、数学者、画家、作家などが並んでおり、左から5番目にはカモンイスがいます。
像はすべて男性ばかりと思っていましたら、左端から2人目に王冠をかぶった女性がいます。この女性は、ドナ・フィリパ・デ・レンカストレといい、ジョアン1世の王妃で、ドゥアルテ1世、エンリケ航海王子達の母です。
 
     
  モニュメントの前には、ポルトガル人の航海者達が辿った航路を示す世界地図のモザイクがあります。地図には発見した場所の年号が記されていますが、日本の発見は、種子島に鉄砲が伝来したといわれる1542または1543年ではなく、豊後国(現 大分県)にポルトガル船が漂着した1541年となっています。  
     
ジェロニモス修道院とベレンの塔そして発見のモニュメントの観光を終えて街の中心部にあるアルカンタラ展望台に戻ります。
正式な名前は「サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台 (Miradouro de Sao Pedro de Alcantara) 」と呼ぶようですが、「アルカンタラ展望台」でよばれており、ケーブルのグロリア線の駅のそばにあって高台にあることから、サン・ジョルジェ城をはじめリスボン市街が見渡せる観光客に人気の展望台となっています。
   
     
  グロリア線のケーブルカー
すれ違った昇りのケーブカーの車体の下部を見てわかるように、前と後部にかなり寸法差があります。したがってケーブルカーへの乗り降りは上側しかできません。
右はカメラを水平に構えての撮影ですが、これだけの斜面となっています。歩いて上るのは結構きついですよね。

それにしてもこの車体への落書き何とかならないもんなのでしょうか・・・・
 
 
   
  夕食は市内のレストランでファドのディナーショー
ファドとは、「運命」あるいは「宿命」の意味があるそうですが、18世紀に生まれたポルトガルの民族歌謡で、アマリア・ロドリゲスは国民的歌手として日本でもその名を聞いたことがありますが、歌詞の意味は解りませんけど、哀愁漂うファドを満喫しました。

といっても前半は、かの国の人がいて、演奏中も大声でしゃべりだす始末。ギターを弾いている演奏者が「シーッ」といって彼らを黙らせることもしばしば。あの国の人何とかならないの。
 
     
 
 
     
        
リスボンのホテルに戻ったのは午後11時少し前、部屋でスマホの歩数計を見たら、なんと今日の歩いた歩数は35,600歩。30,000歩を超えたことはありますけど、過去最高の歩数です。
明日はエヴォラとオビドスの観光です。
 
 
        
        
        
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