建長寺
 
   
鎌倉時代の建長5(1253)年に鎌倉幕府五代執権の北条時頼の開基、南宋の禅僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の開山による建長寺は臨済宗建長寺派の大本山で、山号を巨福山(こふくさん)と称し、正式な寺号は建長興国禅寺といい、「鎌倉五山第一位」の寺格です。
建長寺のある鎌倉山ノ内は幕府がある鎌倉の中心地から少し離れたところにあり、北側の護り口にあたっていたといわれ北条氏の本拠地であったされています。
建長寺は創建後正応6(1293)年に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上して再建されたほかに数度の火災に見舞われて創建当初の建物を焼失、これの再建のために鎌倉幕府公認で元へ「建長寺船」と呼ばれた貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され費用を捻出したとされています。
        
  天下門
創建当時の建長寺は総門の前に東西に外門がおかれていたようですが、関東大震災で倒壊し、現在はこの「天下禅林」の扁額が掲げられた西外門だけとなっており、扁額から「天下門」と呼ばれています。
 
   
   総門
昭和18年(1943)年に京都の般舟三昧院(はんじゅさんまいいん)から移築されたもので、建物自体は天明3(1783)年の建立です。
 
     
三門(山門)
安永4(1783)年に建立されたもので、銅板葺きの屋根を持つ二重門(二階建て)ですが、一層は他の寺院にあるような仁王像はおかれておらず吹き抜け構造となっており、二層部分は非公開ですけど宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などが安置されています。
関東大震災で倒壊しましたがその後再建され平成17(2005)年に国の重要文化財に指定されています。
 
    
       
梵鐘
高さ2.1m、重さ2.7トンのこの梵鐘は建長7(1255)年に鋳造されたもので建長寺創建当時の数少ない遺品のひとつで、国宝に指定されています。
 
   
     
ビャクシン(柏槇)
ヒノキ科の常緑高木で、「イブキ」とも呼ばれていますが、このビャクシンは蘭溪道隆師が中国より渡来の際に持参した種子を建長寺創建の時に手植えしたといわれており、樹齢推定760年、樹高13m、幹回りは6.5mという巨木で、三門と仏殿の間に植えられていて神奈川県の名木百選に選ばれています。
 
   
     
仏殿
国の重要文化財に指定されているこの仏殿、芝増上寺にあった二代将軍徳川秀忠の正室であったお江の方(浅井長政の三女)の霊屋を建て替えるにあたって建長寺に譲渡されたもので、正保4(1647)年に移築されています。建物の造りは霊屋として造られたものなので、屋根は他の寺院のような入母屋造りではなく寄棟造り、天井は格子天井となっています。
 
   
     
法堂
文化11(1814)年に方三間、裳階付、銅板葺きで建立されたもので重要文化財に指定されています。法堂の天井画の「雲龍図」は鎌倉在住の画家小泉淳作氏によるもので、建長寺創建750年を記念して平成15(2003)年に描かれたものです。
 
   
       
唐門
乗用文化財に指定されているこの唐門は、方丈の入り口にあたり、こちらも仏殿と同じく芝増上寺より移築したされたものですが、関東大震災で被害を受けましたが修復が完了しています。
   
        
   
 
  方丈の庭園
庭園は京都の西芳寺や天龍寺の庭園を設計した禅僧夢窓疎石の作といわれています。
 
     
 おまけ    
     
浄智寺
 

鎌倉五山第四位の寺格を持つ浄智寺、弘安6(1283)年に鎌倉幕府第五代執権北条時頼の子北条宗政の霊を弔うために北条諸時が開基したと伝えられています。(この時諸時は齢8歳であったことから実際には宗政の妻と兄、第八代執権の北条時宗による創建が正しいとされています。)
寺は最盛期には七堂伽藍を備え塔頭も11寺院に達したとのことであり、寺域は天柱峠(源氏山)付近まであったと最近の調査で判明するほどだったようです。
しかしながら15世紀半ばごろより徐々に衰退し始め、江戸時代にあった塔頭8院も関東大震災で壊滅状態となり、現在の姿は昭和に入ってから復興されたものです。
境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されています。

右の「山居幽勝」扁額が掲げられた山門は鐘楼門形式となっており、梵鐘は花頭窓のある二階におかれています。 
   
   

仏殿
 
布袋像
 
鎌倉十井の「甘露の井」
 
   
円応寺

建長寺派の寺院ですが、創建は建長2(1250)年と伝えられていますが、建長寺の落慶より以前の創建であることから創建時は別の宗派の寺院であったようです。
本堂内には鎌倉時代作の閻魔像(重要文化財)や冥界の十王の像でが安置されており、別名「新居閻魔堂」、「十王堂」とも呼ばれています。寺は当初は由比郷見越岩に建てられましたがその後由比ヶ浜に移転、元禄16年11月23日 (旧暦)(1703年12月31日)のによる津波被害により倒壊し翌年この地に移転しています。
写真は左から山門、「閻魔王」と彫られた石碑、本堂です。残念なことに内部は撮影禁止です。
 
       
 
   
源頼朝公の墓

鎌倉幕府の初代将軍であった源頼朝は建久
10(1199)に亡くなっていますが、その死因については落馬、溺死、糖尿病、暗殺等のいろいろな説があり定かではありません。
亡骸は持仏堂(法華堂)に葬られていましたが、法華堂は明治時代の廃仏毀釈により棄却されており、現在は明治時代に建てられた白旗神社がそばにあります。
墓は頼朝の子孫であるといわれる島津家25代当主であり薩摩藩第八代藩主の島津重豪(11代将軍徳川家斉の正室茂姫の実父)によって建立されたもので、曽塔のわきにある石碑にはその名が刻まれています。
右の写真は墓への入り口で右側に頼朝公顕彰碑、左が白旗神社そしてお墓は正面にある50段ほどの階段を上ったところにあります。
   
   

白旗神社
 
頼朝公の墓
 
   
宝戒寺
 
東勝寺の合戦で滅亡した北条氏の霊を弔うため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が北条氏の執権屋敷跡に建武2(1335)年に建立したと伝えられており、、正式には金龍山釈満院円頓宝戒寺といいます。

寺は萩の名所と知られており、「萩の寺」とも呼ばれて秋には多くの人が訪れるようです
 
        

聖徳太子堂
 
徳崇多大権現堂
 
   
東勝寺跡と北条高時の腹切りやぐら

鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏が嘉禄元(1225)年に菩提寺のひとつとして鎌倉葛西ケ谷(かさいがやつ)に建立した東勝寺は有事に備えた城塞の意味をもった寺院と推測されています。
元弘3(1333)年鎌倉攻めを行った新田義貞をここで迎え撃った東勝寺合戦であえなく敗れた北条高時以下一族郎党870名が自刃したと伝えられています。寺はその際に焼失するもすぐに再建され、室町時代には関東十刹の上位に列せられるまで繁栄しましたが戦国時代に廃寺となりました。 寺跡は「東勝寺跡」として国の史跡に指定されています。
写真は左から東勝寺跡、鎌倉青年団による東勝寺の石碑、腹切りやぐら
 
       
 
     
     
     
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